投稿者: Jun Mukai

バニラ味

子の友達の主催するパーティに参加したら食事と一緒にカップケーキが用意されていた。2種類あり、一方は黒くてチョコレート味と思われるもの、もう一方は茶色というかきつね色というか、普通のカップケーキだ。日本語で言うとプレーンというところだろうか。子供にどっちがいいか選んでもらうことにするが、その時この普通の方の奴のことをなんと呼んだらいいかわからず一瞬言い淀んでしまった。箱にはラベル等が一切ついておらず情報はない。なんと呼んだらいい? 結局その時は色を使い、blackのやつとbrownのやつとどっちがいい?のように聞いた。blackのやつはchocolateだと思うよ、と言い添えて。

そのあとで他の子とその親たちとの会話を見ていたら、みな迷いなくchocolate? vanilla? などと聞いていた。

そうか、これが英語でいうところのvanillaというやつなのか。

だいぶ昔に vanilla JS という表現を知った時には、ものすごく腑に落ちない気持ちを味わったものである。似たように感じたことのある日本人も多いんじゃないだろうか。いろんなフレームワーク、ライブラリなどが使われることの多いJS界隈において、特にそういうものを使わない巣のJavascriptランタイムと標準の(webの)APIなどだけで作ったもののことを区別して呼ぶことがあり、そういう時にvanilla JSという名前が使われる(ことがある)。なぜかというとアイスクリームなどにいろんなフレーバーがあるが、標準的で特殊な味のついていないものがバニラ味だから、転じて特に何も足していないJavascriptはつまりバニラJS、という説明なのだが、でもバニラアイスクリームはバニラのフレーバーついてるでしょ……と腑に落ちない気持ちになったものである。

でもまあ英語での表現というのはそういうものなのだ。標準的なアイスクリームはバニラ味だし、特別なフレーバーがついてない普通のカップケーキもバニラ味なのだ。英語圏に何年も住んでいて本当に今更だが、本当にみんな自然にバニラ味と表現していてちょっとびっくりしたのであった。

この vanilla cupcake にバニラがフレーバーとして含まれているかというと……実際には含まれていそうである。だからバニラ味と呼ぶのが間違いとかいうことはないだろう。でもやっぱりバニラ味はまだなかなか自分からは出てこない表現ではある。精進します。

はてなブックマーク見るのやめることにした

色々あって最近ようやくはてブを見るのやめている。

はてなブックマークは(自分でブックマークしたりコメントしたりは多分したことないが)見るのはできた当初からずっと見ていたと思う。色々思うところはないでもないが新しい記事を見つけたりするのにはやっぱり良いなと思っていたので。ただまあいい加減togetterとアノニマスダイアリーにはうんざりしていたし、もうやめていいかなと踏ん切りが(自分の中で)ついたのでやめることにした。

ただ見るのをやめるだけだと、これまではてブ経由で存在を知っていたようなものが読めなくなっていってしまう。困る。どうしよう(……困るんだろうか?)

はてブ経由で眺めていたものというのはつまり日本語の情報なのだけど、具体的にはどういうものかというと、一般的な(日本の)ニュース、技術的な記事、そのほか雑多な日本語のブログ記事、などと思う。このうち一般のニュースについてはニュースサイト・アグリゲータで良い気がする。とりあえず今はGoogle Newsを見ている。あとはGoogleの記事をおすすめするやつ(Discover?)。

それ以外については、技術系の記事はzennとかqiitaとかをもう少し真面目に使ってみたらいいのかも。技術系でない読み物ならnoteとかなんだろうか。いずれにしても、こういう個別のサービスに属した記事だけに限定されてしまうんだよな。独立したブログ(私のこのブログみたいな)についてはどうしたもんだろうか。この辺はもう少し模索が必要そう。現状だとこの辺はかなり目にするものが減ってしまっているだろう。

このネタ、昔みんなで書いたなと思って https://messagepassing.github.io/009-feed/01-morrita/ を読み返してみた。けどみんな英語の話しか書いてないな……英語圏の情報は、まあいい。いやよくはなくてもう少しなんとかしたほうがいいかもしれないが、それはまた別件で今は日本語の読み物についてもう少しどうにかしたい。ひとまずはRSSリーダにも思いついたものを放り込んでみるぐらいしかアイディアがない。

みんなの「こうしてます」という情報(「はてブに戻りました」以外で)があったらお聞きしたいところ。

シリコンバレーのドローン海賊

SFアンソロジー『シリコンバレーのドローン海賊』を読んだ。ぶっちゃけタイトルに惹かれて手に取ったというのが正直なところ。 https://amzn.to/3X4T7Sg

「人新世」というキーワードで括られたアンソロジーということで、人間活動による環境への影響、環境破壊、生態系の変化、人間たちの変化、といったものが起こるような近未来を描いた作品を集めたものだった。

アンソロジー全体としては結構面白かったのだけど、残念ながらタイトル作品は自分の好みには合わなかった。ドローン配達が発達した近未来のシリコンバレーで、高校生の若者たちが配達ドローンを捕まえる遊びをしているが……という筋立てでアメリカの格差社会を描いているのだけど、あまりにも現代と地続きすぎてSFとしては弱すぎるし人新世というほどのこともなく、魅力を感じなかった。

それ以外の作品はなるほど「人新世」というキーワードを感じられて面白いものも多かった。ただ、他のアメリカ人の作家の作品についても、環境破壊・環境変化については、近年のアメリカ、特に西海岸やニューヨークなどを襲う大規模な山火事による大気汚染の話題から敷衍したような描写が多いように感じられた。もちろん読者に身近に感じてもらうのは小説の技巧の一つではあろうけれど、一方で想像力の限界といえばいいのか、なんといったらいいのかわからないが少し単純化された世界像であるようにも感じられてしまった。それ以外の地域の作品も多くてそれは面白かったが、でも自分の身近のものではないから詳しくないがゆえに新鮮に思えているだけではないか?という不安も覚えて少しモヤモヤする。もっとも、こういうのは本書に限った話でもなく近未来を扱う作品ではありがちなことなのかもしれない。

これはSF作品に何を求めるか、という話なのかもしれない。人によって違うわけだが、自分としては現実世界からの飛躍がそれなりにあって欲しいという気持ちがあり、それゆえに上記のような感想になってしまう。本書の中でも自分として面白かったのは「エグザイル・パークのどん底暮らし」や「菌の歌」、「渡し守」あたりで、この辺は世界設定とは別にSF的な飛躍があり、そこも含めての作品の魅力になっていると思う。ただ「クライシス・アクターズ」や「未来のある日、西部で」はそういう飛躍があると言うわけではないが面白く読めたので、それだけの話でもないのかもしれないけれど。

QRコードがメールで来る

子の保育園からの連絡で、メールがあって詳しくは添付したファイルを見てくれみたいなことが書いてあったので見てみたところQRコードがバーンと貼ってあった。しかもPDFファイル。どうやってスキャンしてくれたものだろう。

まあPCというかラップトップでメールを開いて、それを携帯電話のカメラで撮ればスキャンはできる。けど携帯電話しかなかったら? これはちょっと面倒ではないか。

これが画像ファイルなら(Androidなら)QRコードスキャナアプリを入れて画像のインテントを飛ばしてやればいいだろうけれど、PDFだとそうはいかない。ちょっと面倒だけどPDFファイルを表示してあげてスクリーンショットを撮り、それをQRコードスキャナアプリに入れるということになる(Androidnの場合、アプリを入れるよりはGoogle Photosでスクリーンショットを開いてGoogle Lensの機能で解析してもらうとQRコードを読めるのでそっちの方が手間が少ないと思う)。大した手間じゃないけどちょっと面倒。結局その先のURLを開いて別のデータをもらうだけなので、最初っからURLだけ教えてくれ!という気持ちにはなる。

もうちょっと楽にならないものか? 例えばPixelだとcircle-to-searchといって画面の任意の場所を囲うとそこで検索してくれる機能がある。でもQRコードを囲ってみても「それはQRコードですよ」という以上の情報は教えてくれない。

例えばchatGPTとかGeminiとかにQRコードの画像を渡してみても、それがQRコードであるというところまでは教えてくれるし、スキャンするにはQRコードリーダアプリを携帯電話に入れるといいよ、というところまでは教えてくれる。でもそこまでだ。スキャンしてくれない?と聞いてもできませんといった返事しか返ってこない。まあLLMというのはそういうものではないので当然であり、嘘っぱちのスキャン結果を返さないだけ最近のLLMというのは賢いな、とも思う。

でもさあ、そういうのこそ世間の人がAIというものに対して期待しているものなんじゃないか。QRコードスキャナという機能がLLMに埋め込まれている必要はないのだけれど、それがQRコードだということまでわかるならリーダを裏で起動して読み取ってくれよみたいな。これができないのちょっとがっかりする。もちろんブラウザインテグレーションみたいな機能はできてきたりしているから、同様にやればできるようなものかもしれない。ニーズがニッチすぎて優先順位が低いのかもだけど、数年後にはできてたりするのかもね。

それにしても、流行りのAIが相手になるとQRコードの方が扱いづらいというのは面白い。普通にURLの文字列がずらずら並んでいたら、いとも簡単にスキャンして文字起こししてくれるだろうに。

99人の人狼と1人の人間の住む村

fediverseで見かけたネタ。ちょっと考えてみたらよくあるこの手のものとは違う帰結になりそうな気がする(ような前提を置ける)のが面白そうだったのでちょっとここに書いておく。

https://mozilla.social/@taku0/112507954617690585

99人の人狼と1人の人間が暮らす村がある。
この村の住人は皆、誰が人狼で誰が人間なのか知っている。自分自身がどちらかなのかを除いて。そのことは全員がよく知っている。
また、古くからの掟として、人狼は深夜に人間を襲わなくてはならないということもよく知られている。

この村の住人は皆、相手が人間であるかのように振る舞っていた。もしも自分が人間だった場合、相手が自分が人狼だと自覚した夜に襲われてしまうからだ。
そうやってこの村の住人は平和に暮らしていた。しかし、その平和は長くは続かなかった。
ある日この村に恐ろしい狼の神が現れ、「この村には人狼がいる」と告げて去っていった。

リプライでリンクされているが、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%9C%89%E7%9F%A5%E8%AD%98 のようなパズルの一種として解釈できる、が、人狼と人間という関係性があるので少し違った振る舞いになるんじゃないかというふうに思う。

まず基本的な前提は次のようなものだ。

  1. 村人は人狼か人間かのどちらかである
  2. どの村人も、自分が人狼か人間かは知らない
  3. どの村人も、他の村人が人狼か人間かは知っている
  4. どの村人も、条件3(他の全ての村人は自分の正体を知っている)ことを知っている
  5. 村人は、自分が人狼であるとわかったらその日の夜に人間を襲わなければならない。襲われた人間は死ぬ
  6. 自分が人狼であると確信を持てない人は人間を襲わない
  7. 村の中に少なくとも一人は人狼がいることがわかった

こんなところかな。一般的な人狼・人間とは違うしそんな条件が成り立ちうるのかなという気がしないでもないけど、ひとまずこの条件が成立している場合にどうなるか、と考えることにする。またこの手のパズルの前提として「8. 全ての村人は同等に論理的に推論でき、論理的に行動するし、全ての村人は他の村人がそうであることを理解している」とする。

もし村人が2人であり、一方が人間でもう一方が人狼だとするとどうなるだろうか。人狼からは人間の村人しかいないので自分が人狼であることが確定する。したがって条件5によりその日の晩に人間を襲う。人間は自分が人間であるか人狼であるかはわからない。もし自分が人狼であれば自分は襲われないが(人狼は人狼を襲わないので)、人間であれば自分は襲われて死ぬことになる。したがって翌朝には人間は死んでいる、というのが良くあるパズルの解である。

でもそうなんだろうか。人間の側からすれば襲われて死ぬ可能性があるのに放置するものだろうか。自分だったら逃げる気がする。もしそうだとすると、村人が2人の時は「その日のうちに人間の村人は逃げ、人狼ひとりの村になる」なんじゃないか。

つまりここで自分は新しい条件を置いている。それは「9. 誰でも死にたくないので、もし自分が襲われる可能性が少しでもあるなら村から逃げていなくなる」というものだ。かぶっている帽子の色とか目の色とかと異なり、人狼と人間だと人間側は死ぬことがあるので、パズルとしてはそこに非対称性ができてしまうのではないか、ということです。

次に村人が3人(人狼2vs人間1)の場合はどうなるか。この時、人狼の側からすると人狼1と人間1が見えている状態である。もし自分が人狼なら問題ないが、もし自分が人間であるなら、自分から見えている人狼にとっては人間2の状態に見えるので自分が人狼であることが確定され、自分は襲われる可能性が捨てきれない。したがって逆に人狼2人がその日のうちに逃げ出すことになる。人間1にとっては自分が人狼でも人間でも人狼がこちらを襲う行動はとらないことがわかるので、残る。

村人が4人の時。人狼からすると人狼2vs人間1に見える。もし自分が人間だとすると、上記の推論により人狼2は逃げ出すはずである。そこで1日待って様子を見るが人狼たちは逃げ出さない。このことにより自分が人狼であることが確信できるので2日目の晩に人間を襲う行動を取れる。人間からは人狼3が見えており、もし自分が人間であるなら上記の行動が推論できるので、1日は待つが2日目のうちに逃げ出す行動をとることになる。

村人が5人の時。人狼からすると人狼3vs人間1である。上記の推論により、もし自分が人間であるなら人狼から見えている他の人狼3は村人4人のケースと同様から2日目の晩に人間を襲うはずである。したがって人狼は2日目のうちに逃げ出して人間が残る。

村人が6人の時も同様の議論から、3日目のうちに人間が逃げる。

というふうに、村人の総人口が奇数か偶数かで振る舞いが変わるのではないか。この場合には村人が全部で100人だと50日目に人間が逃げ出すことになる。が、もし99人だと49日目のうちに人狼がみんな逃げてしまい人間1人がポツンと残ることになるのだろう。

もちろんこれは上で私が勝手に置いた前提に基づいた議論なので、違う前提なら結論は変わることになるはずである。人狼ゲームみたいに他の村人を攻撃できるなら全然違った話になるでしょう。自分が襲われる確率によって振る舞いが変わるならまた違った話になるかも。

でもまあこんなちょっとした前提の違いで結論が結構変わってしまうのは面白いのではないか?と思ったのでここでこうして書き下してみた次第。

あと当然ながらこれはパズルなので、現実的にそんな行動を取りますかという話はしていませんので悪しからず。

自分ドメインに個人用activitypubサーバを立てた

ある時期からちょっと自分用のactivitypubサーバを立ててみたいという気持ちが高まってきたので、ようやくやってみた。

ソフトウェアとしてはmastodonではなくpleromaを使うことにした。理由は、なんとなく面白そうだから。そのせいで無駄に面倒なことになっている気もするが。

サーバとしてはGCPでE2-microインスタンスを借りて使うことにした。0.25コア1GBメモリのburstableインスタンスだ。burstableなので高負荷時には遅くなりそうだが、自分の個人用途では今のところ大丈夫そうである。値段は$7/月くらい。趣味としてはまあまあのお値段ではある。f2-microの方が安かったしメモリもそれで足りそうなので、そっちの方がよかったのかもしれん。まあ今はこれでいいです。

インストール作業はとりあえず https://docs-develop.pleroma.social/backend/installation/otp_en/ をなぞるだけなのでそれほど困らない。ただ libssl-1.1 が apt 経由で入れられないのでちょっと難儀した。S3の設定はしていない。メールは(使わないと思うが)一応アカウントあったのでmailgunの設定を付け加えている。

実際に使っていて、特に負荷のない平常時でCPU利用率は5%くらい(0.25コアというのは平均使用率で、実際に見えるのは1コアなので0.05コアくらいということ)、メモリは20-30%くらい(200-300MBくらい)。PostgreSQLも走っているのでこれに追加はあるが、負荷としては全然大したことない。

インストールしてみて、ひとまずすんなり動いているので、さっさと旧アカウントからの移行を行なった。と言ってもmastodon / fediverseにおけるアカウント移行というのは、

  • エイリアス設定(新しいアカウントから旧アカウントへ言及する)
  • フォワード設定(旧アカウントから新アカウントに転送する)

というだけで、これは基本的にフォロワーを移行させるという効果しかない。旧アカウントをフォローしている人は新アカウントにフォローを付け替えられる。自分自身のフォローについては移行されないので手動でインポートする必要がある。また投稿自体は移行されず、空っぽのタイムラインから再構築しないといけない。これはfediverse全体でそういうもののようだ。

pleromaを使っていて意外に思った点:他サーバの投稿はfav/reshare/replyが全く見えていない。

どうも手元のサーバにある投稿についてだけ計上されるみたいだ。つまり基本的には自分がそういうものをつけたかどうかという0/1の情報以上のものは出てこない。他サーバ上でのリプライやfavの情報は取ってこないようになっている(?)ように思われる。

そういうものをみたい場合、投稿元のサーバにアクセスすれば情報は読めるから、一切アクセスできないというわけではない。自分はフロントエンドはphanpyを使っているが、phanpyの場合はメニューから簡単にアクセスできる。でもメニューを開いてクリックするという2クリックが必要になるし、そもそもリプライがあるのかどうかもわからない状態でそれをあえて確認するかというと結構な手間ではないか、という気がする(pleromaの標準フロントエンドでもメニューを開いてexternal sourceに移動すれば読める。クリック数は同じだが、pleromaの場合は実際に相手のサーバのURLを開くのでページロードのぶん遅い)。

それに「フォローしているアカウントに対するリプライ」に反応することができない。つまり私のフォローするAさんに、私のフォローしていないBさんがリプライしていたとする。このBさんのリプライは私のサーバには来ていないので見えない。上記の方法でAさんの投稿の所属するサーバに移動すると読めるが、そのBさんのリプライはAさんの所属するサーバの投稿なので、私からはreshareとか再リプライとかができないわけだ。そんなに困ることはない気もするけどちょっと直感的ではないように感じる。

ちなみに一方で、「フォローしている人が他の自分のフォローしていない人にリプライした投稿」の場合はリプライ元も読め、反応できるようになっている。ややこしいけど、自分はAさんをフォローしていて、AさんがBさんの(公開された)投稿にリプライしているとする。すると、Aさんのリプライと、元のBさんの投稿はどちらも自分のサーバに保存されるので、Bさんの元投稿に対しての各種操作が許されるようになっている。

この組み合わせで、A->B->A->Bみたいにリプライの応酬があったとすると、一つ目のBさんのリプライは見える(Aさんがリプライ仕返しているので)が、二つ目のBさんのリプライは見えない、みたいなことが起こったりする。さらにAさんの最初の投稿についた別のCさんのリプライも見えない、みたいになったりする。めちゃややこしい。

同様にフォロワー・フォロイーもほとんど情報がない。例えば私がAさんをフォローしているとして、Aさんのアカウント情報を自分のサーバ上で表示させてみる。するとフォロワー数とかフォロー数とかは正確に出ているが、実際に誰をフォローしているのか、どんなフォロワーがいるのかを確認しようとすると自分以外は一切出てこない、といったことが起こる。これも自分のサーバ内のDBには情報がないからであろう。もちろん当人の所属するサーバに行って表示させれば出てくるからそんなに問題はないのかも知れない。でもこれもfindabilityが低い気がして今ひとつだなという気もする。

前使っていた普通のmastodonではこういうことはなかったように思う。設計思想の違いというやつだろうか、それとも前のサーバは大規模なので単に気づきづらかっただけなのだろうか。単に気づいていなかっただけという気もするが、一方でpleromaは軽量を自称している関係である程度の割り切りもあるからではないか、という気がしている。同じActivityPubサーバでもそういうところに違いがある(ありうる)というのはあんまり考えていなかったので興味深い。基本的にはちょっと不便だなと思っているが、投稿が限られていて静かな雰囲気はあってこれはこれで悪くないかもという気もしないでもない。いやまあでも不便は不便だな。

それにしてもサーバを動かして公開するのって久しぶり。しかし、正直にいうともうそういうことあんまりしたくないという気持ちはある。最初にセットアップしてソフトウェアを起動するところまでは全然問題ないんだけど、ソフトウェアをアップデートしたりとか、証明書の更新とか、もうなんか面倒だなと思ってしまう。そういうのはクラウドプロバイダに任せてAppEngineみたいなのでソフトウェアを動かしたい、という気持ちが強い。その方が(個人用途だと特に)安くなるだろうし。AppEngine + firestore + blobstore or google storage みたいな構成のactivitypub対応ソフトウェアはないんだろうか。AWS ECS + Aurora + S3でもいいですけど。

もちろん探せばあるんだろうけど、そういうものが特に人気ということでもない、というのはちょっと不思議。ものすごく時間があったら自作を試してみたい気もするけど、そんな時間はないかなぁ……activitypubのプロトコルはかなり複雑そうだし、上記のようなあれこれを考えるにやるべきこともかなり大掛かりなものだろうな。

そういえば、かつてcloudflareが開発したwildebeestっていうソフトウェアがあって、これはこういう自分のような人間には向いているよな、最近あんまり噂を聞かないけど、と思って見に行ってみたところ、噂を聞かないどころかプロジェクト自体がいつの間にかアーカイブされてしまっていた。残念。

ぼくらの七日間戦争

宗田理氏が亡くなったという報道をみた。ご冥福をお祈りする。

宗田理といえばもちろん『ぼくらの七日間戦争』だろう。自分はまさにその世代(よりはちょっと若い?)。とりわけ熱心なファンというわけでもない自分でも映画は見ているし(せいぜいテレビで放映された時に見ただけだが)、その後に原作も読んだ。その後「ぼくら」シリーズの続編小説も何冊か読んだと記憶している。改めて刊行履歴を見ていると2020年代に入っても続編やら新作やらが刊行され続けている長期シリーズなのであった。すごい話だ。

それはさておき『ぼくらの七日間戦争』だが、今改めて読んでみるとどう思うのか、流石に当時とは違った感じられ方になるのではないか、今読むと面白くないかもしれないが……と色々気になってきたので、読んでみた。当時は角川文庫で読んだと思うが、手元にはないので電子書籍版で買って読んだ。

さて。

確かに感じられ方は色々変わっていたなと思ったが、その変わり方は読む前に予期していたのとは違っていて、改めて読んでも面白く読めたし、再読してよかったなと思った。

第一に思うのは、この本、本当にギミックだらけというか、ギミックだけで構成されているような小説だなということだ。立て続けにいろんなことが起こる。同級生の誘拐、身代金の受け渡し方、校長や体罰教師との対立や仕返し、市長の汚職の暴露など、いろんな事件が起こっていき、それを主人公たちが鮮やかに解決したり、ダメな大人たちが酷い目にあうというシンプルな構成が繰り返されている。話としてはある意味では単純かつ単調ではあるんだけど、ギミック自体の面白さとかトリックの描写の面白さが優っていて面白く読める。初読当時にも思ったけど教師たちのために作り上げた迷路の細かい描写や、それによって校長たちが散々な目にあうところの細かい描写なんかが特徴的だ。そこが面白いので面白く読めるし、それは昔でも今でも変わらないなと思った。

読む前に勝手に予想していたのは、おっさんになって(まだ幼いが)子供を育てるようになった自分としては大人側に感情移入するようになるのではないか?というものだが、これはそういうことはなかった。本書に出てくる大人たちはわかりやすくダメに描かれているし、いわゆる「昭和」な感じがあって隔世の感が大きすぎるし、そもそも感情移入されることがないように描かれているように思う。たまに出てくる「いい大人」は特異なバックグラウンドの人たちで、そちらにも感情移入するということもない。が、当時と違うとしたら、主人公たちにも全く感情移入できなくなったということだろうか。初読時には結構感情移入して読んでいたような気がするのだが、今となっては傍観者的な立場で観察するような気持ちの方が今としてはまさってくるところがある。

そして、傍観者的な立場になって改めて読んでみて、ようやく気づいたのは本書の主人公たちの「思想のなさ」だ。映画版の影響か、過剰に行間を読み取ったのか、誤読か、なんとなく「80年代当時の厳しい管理教育と対立して自由を希求する子供たち」といった対立構造があったように記憶していた。その捉え方が完全に間違っているとまでは断言しづらいところがあるが、全体的なムードとしては主人公たちはあっけらかんとしていて、思想がない。これはこういう話としてはちょっと珍しいのではないだろうか?

普通、「中学校のクラスの男子全員が突然廃工場に立てこもって開放区を自称し、大人たちと対立する」というプロットだとすると、何かの事情があるということを想像するのが普通じゃないだろうか。物語の作り手としてもそういうものをどうしても考えてしまうのではないか。子供たちには立てこもるだけの事情があり、そのためなんらかの要求があり、それは大人には到底飲めないようなものなのでそこを巡って対立が起こる。要求が通るのかどうか、最終的にどんな解決を見るか……みたいな構造をとるのが物語っていうものなんじゃないか。しかも体罰教師によってクラスのうち一人が痛めつけられ入院しているという話まで用意されているのだ。そういう話が争点になったりとかするのが普通の話だろう。

これが全然違う。もちろん体罰教師は作中では最悪の人物であり作中でしっかり酷い目に遭わされるし、そこは物語の主軸の一つでもある。でも子供たちの動機は、いきすぎた体罰に対する逆襲とかでもないし、管理教育への反発でもない。もちろん大人は信用できないとか、そういう話はする。でもそもそも立てこもった動機がなんだったのかというと、はっきりとした動機は語られないというか、どうも大した動機はなかったようだ。なんとなくクラスみんなで廃工場で何日も過ごすの面白そう、みたいなぐらいの話しか出てこない。冷静になって起こった事象を見返してみると、親に内緒ではあるがみんなで何日かキャンプを過ごすのと何が違うのかというと、特に何も違いはないような気がする。

もちろん、立てこもりを「解放区」などと自称したり、「全共闘世代」の子供という世代性があり、挑発的な仕草を繰り返している。最後にはわざわざ安田講堂立てこもりの時の文章を引用したりする。だが子供達が思想的にそういう部分に共感しているかというと、全然ない。むしろ大人の側がこういう部分に過剰反応して、全共闘だとかテロリズムだ、反乱だなどと大騒ぎしてしまっている。子供たちは大人たちにそうなるようにしむけ、おちょくるためだけにこういう表現を使っているだけ、というふうに読める。

立てこもる理由は特にないから子供達は何も要求しないし、だから物語全体としては大きな対立構造というものが全然ない。大人たちも説得しようとしたりするが、何を言っても「そんなんじゃねえよ」といなされてしまい暖簾に腕押しだ。そして最終的には警察によって突破されるが……子供たちには立てこもる理由もないので、さっさと脱出しておしまい。あっさりしたものだ。一体この話は何の話だったんだろう? こういう話だったとは気づいていなかったな。そして傍観者的な立場としては子供たちが結局何をしたかったのかちょっとよくわからないな、と思ってしまった。肩透かしというか、全体的に虚無感があるというか……。

でも、そういうふうに読むのは違うのかもしれない。むしろ個々のギミックやトリックの描写が全て。そちらを楽しむべき小説なのかもしれない。

ともあれ面白かったです。

Venba

以前にも何かの記事で見かけたような気はするけど、 rebuildfm で言及されたので思い出してプレイしてみた。

これは…………何と言ったらいいのかな、めちゃくちゃ心に刺さる作品だった、個人的に。日本での世間一般での評価で言えばそれほどのゲームではない気がするけど、刺さる人は自分の身近には多そうだなと思いました。

ゲーム単体としてはめちゃくちゃ他愛もないようなものだ。というかゲーム要素はかなり薄くて、ほぼストーリーを追いかけるだけで、要所要所でタミルの料理を作ることになるのをやるという感じ。料理の手順が一部わからなくなっていたりするので微妙に推測したり試行錯誤したりするけど、まあ別に全然難しくはない。常識的なものと勘ですぐできる。操作が難しいとかそういうこともない。操作していくと美味しそうなタミル料理ができてくのは楽しいけど、ゲーム的にいうと特筆すべきことがあるかというと、あんまないという気がする。主軸はストーリーテリングであってゲーム要素はおまけという程度とも言える。

メインのストーリーもさほど長くはなく、1~2時間くらいでサクッと終わってしまうんじゃないかなというぐらい。というわけでゲーム単体としての評価で言うとそこまででもないんじゃないかと思う。

けどメインのストーリーラインがめちゃくちゃ個人的にくるのだね。ストーリーは簡単にいうと、インドのタミル地方で生まれ育った女性が夫と一緒にカナダに移住して暮らすという半生を描くというものだ(タイトルのVenbaというのはこの主人公の女性の名前)。仕事が大変だったり、職探しで苦戦したり、文化の違いに苦労し、子供が生まれたら子供は英語ばっかり話すようになり、自分の文化であるタミルに違和感を持つようになり……という移民家族の苦労や衝突、和解を描いている。

こういうストーリーを褒めるのって難しい。正直なところよくあるものではあるし、ああそういうやつねと言われればその通りである。ありがちな話、ってまとめられるようなものかも。ストーリーテリングもシンプルで(それなりに想像力を発揮する余白は大きいものの)とりわけすごくよく描けているとか、ここの描写がすごいとか、そういうことがあるかというと、そんなでもない。インドのタミル地方という文化バックグラウンドについても、日本で生まれ育った自分にとっては馴染みがあるわけでもない。

でもやっぱりアメリカに移住して子供をなし育てている身としてはすごく切実に感じられてしまう(うちの子供はまだまだ小さいからここで書かれているような話は全くないのだけど)。rebuildでの話だとGDCでそれなりに評判だったということだけど、やっぱりそういう場にはアメリカとかカナダとかで働く人には移民1世や2世がそれなりにいて、世間一般とは全く違うレベルの切実さを感じてしまうからなんじゃないだろうか。そういうバックグラウンドのある人はやってみる価値のあるゲームなんじゃないかな、と思いました。

もちろんタミル料理の追体験という面白さもあります。ビリヤニ作ったりするよ! でもそれだけじゃないところで自分の心に刺さるゲームでした。広くおすすめなものではないけど、人によっては響くと思います。

https://en.wikipedia.org/wiki/Venba_(video_game)

花粉症

どうもついにアメリカでも花粉症を発症するようになったようだ。

アメリカに移住してから花粉症は劇的に改善した。東京に住んでいたときは毎年春は目の痒さがすごくて涙が出過ぎて、寝ている間の涙からたまった目脂で朝起きたら目が物理的に開かなかったこともあるぐらいのものだったけれど、アメリカではそういうことは全く起きなかった。もちろん目に何かを感じ取れるぐらいのことはあるし、多少のくしゃみとかはあるけれど、ほとんどないと言ってもいいぐらいの改善度合いだった。

それが数日前からどうにも鼻水が出るようになってきた。それも透明で水っぽい鼻水が自然に垂れてくるような感じ。痰も絡むし、くしゃみの頻度が高すぎる。風邪というよりは花粉症ぽい症状に思える。ただ日本で自分が体験していたような目の痒みは(まだ?)ない。

それで試しにと思って薬局でAllegraを買ってきて飲んでみたところ症状が劇的に改善したので、これはまあ花粉症ということでしょう。渡米して10年以上が過ぎ、ついに発症するようになってきたものだろうか(それとも今年は雨がやたらと多いので通常とは何かが異なり、自分の反応する花粉量が例年よりずっと多いのかもしれない)。目が痒くないのは幸いだし、相対的な症状は日本でのそれと比べれば全く大したことはないのだが(Allegraのめば大丈夫だし)、花粉症になってしまったなあという詠嘆はあるのだった。

ああ花粉症よ。私の人生にどこまでついてくるというのか。

ところで心底どうでもいいネタだけど、スタニスワフ・レムに『枯草熱』というかっこいいタイトルの小説があり、かっこいいなと思って読んでみたところタイトルの枯草熱というのはhay feverの訳つまり花粉症のことでずっこける、というSFファンあるあるネタがある。自分もそうやってずっこけたクチである。

この『枯草熱』、タイトルと出だしはかっこいいが中身はそれほど面白くはない。ただこの中に「1kmの先の板に打ち付けられた釘を狙い撃ちできる射手はいない。だが空から雨が降れば板の釘が濡れないということはない」といった趣旨の例え話が出てきてなんだかめちゃくちゃかっこいいなとは思っていて記憶に残っている。いつかどこかで使えたらいいなと思っているがついぞ使えたことはない。

という花粉症ネタでした。

酸っぱい喉

自分でもどういうわけだか知らないが “sore” という単語を認識できていなかったことがある。

soreというのは体の部位が痛いというか何というかというときに使う単語で、日常的によくあるのは喉が荒れ、いがらっぽくなっているようなときだと思う。風邪かなんかで休みます、というときの表現の一つがsore throatだ。

そういうわけで風邪の時期になるとそういう表現をする同僚を目にすることもあるわけだが、この字面を見ていたのにも、どういうわけかsoreという単語が目から滑り落ちて認識できていなかった。そして、代わりになぜかsourだと思っていた。「へえ、喉がいがらっぽいみたいな時はsour throatっていうんだな。不思議な感覚だなあ」などとすら思っていた。思い返すと不思議なのはどちらかというとこちらの認知能力の方である。

恥ずかしい間違いなので誰にも言ったことはなかったし、多分誤用したことはないと思うけど(恥ずかしいので検索はしないが)、それにしても不思議な勘違いであった。まあしかし、内容や期間はともあれそういう変な勘違いの一つや二つ誰しもあるものではあるだろう。変だけど。

風邪を引いたりして喉がちょっと荒れてくるたびに思い出す個人的なネタなのであった。