垂水雄二『悩ましい翻訳語』

This entry was posted by on Monday, 30 November, 2009

悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳

これは良い本だ。

『利己的な遺伝子』などの翻訳で著名な垂水雄二氏が、世に広まっている(主に生物・医学系の)訳語のうち、誤訳しがちなものや事例、誤訳が広まっているもの、誤解から生じた訳語、ちょっと見てていたたまれなくなる訳語、などを解説したエッセイ集。一本一本の内容は比較的短く、軽妙でわかりやすい文章に仕上がっており、ぱらぱらっと興味のあるところだけつまみ食いするといい本になっている。

語られる内容も、それが誤訳だと断定して終わりなのではなくて、その訳語の起源や歴史を紹介したり、代替案を考えたりしていて、そこで語られる蘊蓄がまた面白い。

著者はキャリアの長い翻訳家なので、代替案といっても含蓄がある。たとえば oak (オーク)という樹木を樫の木と訳してはなぜだめなのか。日本にはオークという樹木は厳密には存在しない。海外文学を訳したりしていると、日本には存在しなかったり非常に珍しかったりする動植物がごく普通に描かれるのだが、ここで訳者は苦慮する。学名やら対応する標準和名(やけに長い)では雰囲気が台無しだ。だから、概ね似たような動植物に置き換えて翻訳するということはよく行われている。というのを踏まえた上でなぜ oak を樫と訳してはいけないかというとヨーロッパ文学に登場するのは落葉性のイングリッシュオークだからであり、訳すならコナラなどの方がいいとして、

細かいことをうるさく言うなと文学者から叱られそうだが、冬のオークの森を思い浮かべるとき、樹木が落葉樹であるか、常緑樹であるかによって、そのイメージはまったくちがってしまうはずだ。

と言う。ちなみにこの後、 oak を「樫」と訳すのはどこから来たかという歴史をたどり始め、『聖書』にたどりつくくだりも面白かったが、それは読んでのお楽しみ。

もう一つ面白かったのは「恐竜」という単語で、 dinosaur という英語はギリシア語で「恐ろしい」といった意味の deinos とトカゲを意味する saurus を組み合わせた語だからいい訳だと思われていた(これは有名な話だと思う)。ところが近年になって deinos というのは「最上級、つまり恐ろしいほど大きな、という意味で使っていたことが明らかに」なってしまい、恐竜というのが結果的に誤訳だったことがわかってしまったという。ほかにも、 saurus を蜥蜴などではなく「竜」とした理由であるとか、中生代の爬虫類のほかの訳語についても解説していて、こちらも面白い。

一事が万事こんな具合で、単純にこれがこうだから正しいと教条的に列挙するのではなく、訳せないならカタカナにしてしまえばいいと逃げるのでもなく、どんな訳がなされているかという現状を踏まえつつ、悩んだり解決策を提示したりする。単に日本語に詳しいというのではなく、英語に通じているというのでもなく、両者を行ったり来たりする翻訳という仕事を長年続けてきた著者でなければなかなか書けない内容だろう。

一点だけ、気になったことがあるので書いておく。 generalization を「汎化」と訳すことについて「ほかの分野で使われることはなく」と断言しているが(ほかというのはここでは心理学以外ということ)、私の知る限り機械学習の分野でも generalization のことは「汎化」といい、一般化というような曖昧な言葉ではなく具体的な意味がある。機械学習というのは、だいたい学習データを与えてそのデータに共通の特徴を認識できるようにすることだが、学習アルゴリズムやデータによっては、単に学習データと完全に一致するものにだけ正解してそれ以外ではでたらめになってしまうことがある(over-fittingという)。そうならず、学習データからそれ以外のデータへも適用可能な特徴をちゃんと取り出せる学習アルゴリズムは汎化能力があるとか言ったりする。この訳語の歴史は調べてないのでわからないけれど、心理学分野の訳語から持ってきたものかもしれない。

もちろん、これを一般化と訳していたとしても大した問題はなかったかもしれない。ここの節で著者が主張しているのは、特定の分野内だけで通じるジャーゴンなんて嫌だということである。もっと普通の語でもいいじゃないか、もとが普通の語なんだから、と。ただ、英語では同じ一般名詞が、ある特定の専門分野では専用のジャーゴンがある、というのは個人的にはいいことだと思っている。というのは、原文では一般名詞なのか具体的な定義のある術語なのか分からない場合でも、訳し分けてしまえば日本語の読者にははっきりと区別できて便利だからだ。まれにSFみたいな分野ではそういう専門用語と一般名詞が同じ単語だということを利用したレトリックが使われたりすることがあったりして、そうすると訳者がさらに困るのだが、レアケースなのでそれはSF訳者に泣いてもらいたい。

長々と反論を書いたが、これは本当にちょっとした些事で、この本は全体として大変面白い。役に立つかというと、翻訳などとは無縁な一般生活では単なるトリビアとして自慢する以外に役に立つシチュエーションはまずないと思うけど、でもおすすめ。

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