青木幸子『ZOO KEEPER』

This entry was posted by on Sunday, 26 July, 2009

こないだ出た8巻で完結!

新人の動物園飼育員、楠野香也が動物園や動物飼育に関わる様々な問題に関わり、取り組んでいく姿を描いたシリーズですが、これがめっぽう面白い。読むと、確実に「動物園」に対する視線が変わります。飼育する動物の特性や様々な問題に直面しつつ、主人公たちが少しずつ解決していく、という良くあるタイプのお話といえばそうなんですが、飼育する動物の問題に加えて動物園の社会における役割、登場人物たちの個人的な事情、なんかがうまくからみ合っているのがいいです。特に動物園の役割、といった面が若干強調されているので、ちょっとお固いところもあるんですが、エンターテイメント作品としてきちんと成立しています。おすすめです。

しかしこの作品を語る上では、やはり「クマ園長」熊田大地を外してはおけません。楠野の通う動物園の園長として、楠野の能力を見抜き、「無理難題」をふっかける役である一方、この作品における「動物園とは何か」の中核にいる人物です。以下、簡単な「熊野大地語録」。

人、人、人、人……大型の哺乳類がこの密度でクラスのは無理ですよ。人間は定期的に動物園へ行って自分も動物であることを思い出すべきです。 (第1話)

それは動物園の存在理由そのものにつながる。ただ「見る」ために動物を飼う意味。人という「動物」はなぜ他の「動物を」見たがるのか? 動物はそれ自体が生息地の記憶装置。生態に刻まれた土地と生命の歴史。動物を「見る」欲求が知りたい欲望の表れならば動物園は世界中の「未知」の記録装置。命以上に惹きつけられる未知などない。動物園は命の「未知」と「可能性」を伝える場所であるべきだ!!(第2話)

「動物園の動物は見てもらうことに意味がある」あのテレビを見て押しかけた人たちの一人でも多くに、動く、カワイイ――からでもいいその先にたどり着いてもらう。非難ややっかみ便乗記事も一件も逃しませんよ。人目に立つ所で正面きって論戦張ります。(第5話)

「ああいう子が何かに興味を持つと徹底しているし、案外10年後ぐらいに……ゴリゴリの自然保護論者になって「動物園をなくせ」とか言ってたりして?」「それってダメじゃないですかっ」「ダメじゃないでしょ。大成功――動物園は、そういうことを考えるきっかけをつくる所です」(第12話)

動物園は基本的に金食い虫。なくて生活に困る施設ではない。生き物を囲い込み見せ物にする。それらの疑問に対する答えはひとつではないしかし――それらの疑念を超える信念がなく! 信念を通す行動がないならっ!! そんな園など潰れてしまえっ!!(第17話)

「園長……宿題の『なぜ動物園は象を飼うのか』」「提出?」「象は、いるだけで人を考えさせる『何か』があるから……?」「『何か』って何? ……それじゃ赤点ギリギリですね。象と人の重なる部分、環境に対するすさまじい「破壊力」……「再生力」を「破壊力」が上回るときどうなるかを象は私たちに突きつけ、そしてそこにいるだけで鮮やかに主張する。世界は人間だけのものではない」(第28話)

動物園はあるといいなではなく必要不可欠な存在にならねばいけない(第69話)

わたしが目指し示したいのは生きて成長していく動物園。確か北未の秦野さんにも言いましたね。考えろ! 主張しろ!! 動け!!! 動物園の体細胞である園の人間がその意志を持つならば成長は止まらない(最終話)

……ううーん、こうしてざっと見返して改めて気づいたんですが、いわゆる「語録」的な発言って序盤に集中していてだんだんなくなっていくのですね。もちろんクマ園長はずっと登場していて、ずっと重要な役どころなんだけれども、そういう発言は減っていっている。それはもちろん、このまんがが路線を変更したというわけではなくて、そういう発言を熊田に頼らなくてもよくなったからではないかと思います。当初は新人飼育員の楠野とそれを飼い慣らすクマ園長、という構図の作品だったけれど、シリーズが続いていくうちに一癖も二癖もあるような飼育員が登場してきて、ある種の群像劇へとだんだんシフトしていったということではないかな。でまあこの登場人物たちがまたどいつもこいつも味のある連中で、だから面白いんですけれどね。

最終巻となる8巻はちょっと番外編っぽい水族館のペンギンの話と、チンパンジー。ペンギンも良かったけど、チンプのエピソードが良かったですね。楠野って本当はチンプの担当だったはずなのに、いろんな動物と関わっているわりにチンプのエピソードは第1話以来でずーっとなくて、なんでなのかなぁと思っていました。たぶん最終回用に取っておいたんでしょう。第1話ではチンプの動物的な特性は物語とは関わっておらず、「種の保存」というお題目に対してそういう背景を背負わないがゆえに「害獣」となった個体の悲劇という、動物園の役割自体をテーマに据えた物語となっていたけれど、今回は「戦うことが本能である動物」というチンパンジーの特性をメインに据えた上で、それをうまく物語に組み込んでいて面白かった。

こういう作品の難しいところは、ともすると取材偏重になりがちというあたりではないかと思います。実際、『ZOO KEEPER』にもそういうところはあるわけですけれども。もちろん、作者が自分で考えたストーリーでは独りよがりになってしまうから一概に取材がだめなわけではないけれども、取材だけの話になってしまうのであれば、無理にストーリーに仕立てないで取材として書いてくれた方がいいわけです。その場合、敢えてフィクションにする意味ってなに?という。でもこの作品は意味がある。取材と物語のバランスが上手いので、取材した中身を拝借(たぶん)しつつも、それに対処する飼育員たちの物語として成立させていると思いますね。つまるところ、クマ園長の言うところの「個体を語る」ということです。それがこの作品の魅力でしょう。

クイーンズの墓地は展示の一つ。刻まれているのは個体の名ではなく、その年に絶滅した「種」の名前です。毎年一つずつ増えていく……主張の鮮やかなすぐれた展示ですが、私は日本人にはなじまない気がしました。なるほどと頭で思ってもどうも理に落ちた印象がともなう。感情と理性のバランス――。死んでも何かを伝えられる……それを確実にするために、あなたは飼育員に生前の「個体」を語らせようと考えた。それは正しい。”関わり”や”思い入れ”のないものの死など、すぐに忘れ去る日常でしかないのだから。生前の個体を飼育員に語らせて”思い入れ”を作り、遺体にふれてその種への”関わり”を深める。その方が深く刻まれる。(第62話)

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