シンギュラリティとニュースペースオペラ
>それで、その企画のなかでちょっとしゃべったことと、時間の関係でしゃべらなかったことについてちょっと別項立てて書こう。
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>NSOではシンギュラリティ(特異点)というトピックが、まぁ、一種の共通したテーマとして認識されている(実際にはそうでもない作品もいっぱいあるけど)。でも、シンギュラリティというのは作品のテーマではないのだよね。『シンギュラリティ・スカイ』にしても『ニュートンズ・ウェイク』にしても、作者が書きたいところはほかにあって、それを成立させるための「便利な言い訳」がそこにあったので用語を利用した、というだけのことに過ぎない。そうであることは、その描写に深みがないことのエクスキューズにはなりえないのだけど、でもそれってSFに「人間が描けていない」って文句をつけるようなものです。どうも多大なる誤解を受けているみたいだけど、『シンギュラリティ・スカイ』も『ニュートンズ・ウェイク』も、基本的にはギャグというかコメディなのだし。シンギュラリティについて真面目に考察し、深い思索を得たいのであればレムを読めばいいんですよ……と思っていて、実際に会場でもそのように言ったのだけど、
>たださんがレムを読んでて
> 微苦笑した。しかし、それで正しいと思う。
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>もうひとつ、シンギュラリティなんて真面目にとりあうようなトピックじゃないだろうと思っているというのもある。ヴィンジはマジみたいだけど、ほかの作家もどこまで真剣に考えているのか。あのシンギュラリティね、S-Fマガジンで訳載したのは私なんですが、私はナンセンスだと思っている。そもそも知性というのはそうしたものではないだろう、というのが私の考えなので(ただし、その真偽は今のところはまだわからない)。たとえて言えば、宇宙船が単にロケット噴射で加速して光速を突破してしまうSF小説があっても「アホやなぁ」と思うけど、そこのディティールが描けていないとか科学的に間違ってるとかいって怒るのは違うだろうと思う(コメディの装いをしていればなおさら)。この謂で言うとレムは「とりあえず光速を突破したとして、そうなったら何が起こるか」を詳しく描いている作家、ということになるのかな(どのように光速を突破するか、については考察しない)。
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>あと加藤逸人さんが指摘していた単純な事実。チャールズ・ストロスが『シンギュラリティ・スカイ』を書いたとき、ストロスはヴィンジを読んだことがなかったらしい(タイトルは編集者によって後でつけられたもので、たしか元々のタイトルは『Festival of Fool』)。そういえばストロスの短編にはクトゥルー神話のミリタリーものとかもあって、ウィアードな作家の影響は明らかにあり、エシャトンもそういう「歪んだ神」ということでしかないのかもしれない、とこれは私が思ったこと。ストロスがシンギュラリティを正面から描いているのは、とりあえず『アッチェレランド』、とその続編として書かれた『Glass House』だけです。ただ、こっちの作品が優れているかどうかは私は未読なのでわからないけれど、レムを基準にしてしまうと基準に適うSF作家というのはレム以外に存在しない(ないしは僅少になってしまう)のでその辺りはむにゃむにゃ。
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>というわけで早川から12月にも『シンギュラリティ・スカイ』の続編『アイアン・サンライズ』が出るらしいんですが、そういう期待は無用にしておこう。でも、『アッチェレランド』はいつ出るのかなぁ。
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