逆に考えるんだ、「あげちゃってもいいさ」と考えるんだ
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>http://blogs.itmedia.co.jp/eu/2006/09/post_705d.html
>、
>http://www.rubyist.net/~matz/20060927.html#p02
>。まあそういう面もあろうけれど考え方が逆で、考えるべきはなぜわざわざ非公開にしなければならないのかということなんじゃないだろうか。
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>なんていうのかな、世の中には「公開がデフォルト」という文化圏があるんだと思うのだね。作ってみた
>ので
>公開する、という立場。というと急進的なフリーソフトウェアの賛同者とかを想定されるかもしれないけれど、もっとノンポリっぽい人もいて、たとえば「もちろん何でもかんでも公開したがっているわけじゃなくて理由があれば公開はしないけれど」っていう気分だったりということもあるわけです。ただデフォルトは公開の側に倒れている。そういう文化って、あると思うんですね。起源とか、どういう人がそういう文化に属しているのかとか、そういうのも興味深い話ではありますが、あるかないかで言えばひとまず「ある」と。
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>で、つまりこれは文化であると考えると非常にすっきりした気分になるのは、いざ理由を問われたときにしどろもどろになってしまうことの理由づけができるから。というか、敢えて言えば理由はないのだ。なんでと言われて、もちろん理由はいろいろ考え出せるけれども、なんというか確定的でない。むしろ根本のところでは「それはそういうものだ」からそうするのではないだろうか。文化とはそうしたものだ。
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>たとえば、「なんで家に入ると靴を脱ぐの?」って聞かれても困るでしょう。いや「汚れるから」とか理由はいろいろつけられるけど、でも突き詰めていうと日本ではそれはそういう風に決まっているからそうする。文化なのだ。
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>ただここで注意しなければならないが、「文化」だからというとき、一方に合理的な理由があってもう一方に合理的な理由がないようについ考えがちになってしまうのだけど、そういうわけでもない。たとえば日本人からすると家の中でも土足で上がる欧米人が理解不能であるが、一方で欧米人からすると家に入るときにわざわざ靴を脱ぐという文化が理解不能だ。これはどちらかが合理的なのではなくて、両方とも「そういう文化」であるのに過ぎないのだろう。
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>同じようにして「デフォルト公開」と「デフォルト非公開」はそれぞれが独自の文化圏を構成していて、互いに「なんでそんなことするんだろう」という理由を探りたくなる。しかし、実はどちらにもその根本には大した理由なんてあるわけではなく、ただあるとすればなんとなく直感的で感覚的な理由があるのみなのではないかな。
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>ま、そうであるとする根拠はないんですが、おれはそう思います。
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