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全2巻で面白い漫画

Posted by 向井 淳 on Thursday, 29 July, 2010

全一巻で面白い漫画ある?てのを見かけて、なるほどというラインナップ。あれがないとか、これがないとか、それは短編集だろとか、言いたいことは山ほどあるわけですが、そういうのはtwitterやらはてブやらで補完されているようなので、その辺も含めたさらなるまとめは他の誰かにお願いしつつ、掲題の件を考えてみた。リンク先の書き込みやコメントにも「これは面白いけど全2巻だなー」みたいな意見があったので、じゃあ、どんなのがあるだろうと。

とりあえず手元の棚をざっと眺めた感じではこんなところが出てきました。

五十嵐大介『魔女』 第1集 第2集

あれこれ短編集……? ま、いいか。魔女をテーマにした作品。世界の命運を賭けた深刻な物語から、いなくなった子猫を探す飄々とした掌編まで、様々なタイプの作品が収録されている。種類はいろいろだが、どれもこれも魔術的な不思議なテイストが伝わる素晴らしい画力。ただ五十嵐大介のいいのは絵だけじゃないところ。『魔女』に収められた作品は非常に本格的な幻想譚であり、絵とともに物語が幻想を下支えする。

五十嵐大介はほかにも素晴らしい全2巻作品をいくつか発表している。たとえば、スローライフを通り越した田舎の自給自足生活を淡々と描いた『リトル・フォレスト』(1巻2巻)も傑作だし、先ごろ上巻が発表され下巻の発売が待ち遠しい『SARU』も傑作の予感がする。『SARU』は『魔女』のとある作品と雰囲気が似通っている感じ。

榎本俊二『ムーたち』 1巻 2巻

ムーたちは不条理かつシュール。毎回毎回、主人公のムー夫やお父さん、お母さんは本当にどうでもいいことの関係性に思いを馳せたり、言葉遊び、数字あそびをしたり、自分のことを眺めるというメタ視点を獲得したり、メタ視点を多段化したり。そこで語られる会話は深淵な意味がまったくなさそうなところに逆になにか深い意味が込められているようで、実際のところ単にシュールなだけだったりする。

絵柄は独特であり、特に「お父さん」は頻繁に顔が違う顔になっているなど、シュールな世界観にとてもマッチしている。ハマれば癖になる感じの傑作。

個人的に好きなのは「お父さん」とその知り合いの規理野(きりの)氏の会話。規理野さんは日常のいろんなパターンから意味やメッセージを読み取ろうとする。道を歩いていたときに赤いものを目にした場所、宝くじの当選番号、鼻をかんだ回数、すべてには意味があり、そこから何かを読み取ってしまう。はっきりいえばビョーキなのだが、作品では彼はまったく否定をされない(が、肯定もされない)。ただただ不思議な意味を読み取り、開陳される。この奇妙さは癖になる。

こうの史代『さんさん録』 1巻 2巻

こうの史代といえばやはり『夕凪の街、桜の国』をおいて他にはない。ないけれど、そればっかりじゃないと思うんだよね。こうの史代の持ち味はむしろ、どこか飄々としたユーモアにある。それは実は『夕凪の街、桜の国』でも同様で、乾いたユーモアがあるおかげで、この作品はただ単に被爆者の悲惨を語るだけではない現実的な視点を読者に導入している。

『さんさん録』は妻と死別した男やもめのじじいが息子夫婦の家庭に世話になりながら専業主夫生活を送る日常を描いたまんがで、主人公の無骨な不器用さをユーモアたっぷりに描いている。息子との微妙な関係なんかも描きつつ、淡々と日常をこなしていくおっさんの日常がとても楽しい。掃除の細々した作業をひとつひとつこなして終わったあとで「ところで掃除は上から下へ進めていくのが基本です」にガックリくる回が好き。

いいなーと思うのは、息子夫婦の娘、ようは主人公からすると孫娘にあたる女の子がいるんだけど、これが可愛くないのね(笑)。あんましゃべらなくて虫とかナメクジとかばっかり愛でてるという、主人公からすると何を考えてるんだかよくわからないような。そこがまたトボけた味わいになってて面白い。

山名沢湖『委員長お手をどうぞ』 1巻 2巻

高校に入ってすぐ、周囲に知り合いはほとんどいないはずなのに、なぜか学級委員に選ばれてしまった今枝房子さん。何故? それは彼女が典型的な委員長顔だったから。きっちりした三つ編みにがり勉メガネ、ピンどめに膝丈スカート、ちょっとだけきつめの目付き、という「どう考えても生きる学級委員長っていう感じ」だったからなのでした。でも本当は彼女は気が弱くて声が小さくて、周囲からの視線とのギャップを感じている……という第一話「委員長お手をどうぞ」をはじめ、同じ学校を舞台にさまざまな委員会の委員長を主人公にした連作短編集。

ほかにも図書委員、風紀委員、美化委員、体育委員、その他もろもろ2巻分ありますが、やっぱり最初のエピソードが一番いいですね。1巻巻末の番外編、街中で普通に「委員長」って呼ばれて振り返っちゃうっていう話も好き。

アラン・ムーア『フロム・ヘル』

ラストはアラン・ムーアによるグラフィックノベルの傑作。切り裂きジャック事件を題材にした作品。とにかく圧倒的な存在感で、読むのに時間はかかるが、その密度のぶんの価値はある。こういう作品の翻訳はとても大変だが、本作の翻訳はとてもクオリティが高くてその点も素晴らしい。

物語の表層としては、切り裂きジャックなので娼婦が5人惨殺されるというもので、イギリス王室の醜聞を動機にもってくるというもの。ただし、ここにフリーメイソンや神秘思想がまぎれこみ、虚実入り乱れて語られ、最終的には切り裂きジャックという存在を遠く超えていってしまう。なんかうまく説明はできないのだが圧倒的。物理的にも圧倒的ですが。

下巻の巻末には膨大なアラン・ムーアのコメントが掲載されていて、これもまたすごい。

『フロム・ヘル』は手ごわそうだ、という場合には『トップ10』(1巻2巻)もおすすめ。こいつは、「登場人物全員が何かのスーパーパワーを持っている」という大都市が舞台。そんななかでスーパーパワーを持った市民たちを取り締まる警察たちの活躍を描いている。

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てなわけで。

ありそうで意外とないもんだな、と思いました。1冊で完結したストーリーっていうのは、読み切りが好評だったのでもうちょっとだけ続きを書いてみた、というケースが多い気がする。その一方で長編まんがなら2冊よりは長いはずだし、中途半端な長さなのかも。でも、ないというほどなくはない。ちょっと長めのシリーズだとか、そんな感じでけっこうありそうだな、と思いました。


初音ミクのボルダリング講座がわかりやすい

Posted by 向井 淳 on Saturday, 24 July, 2010

個人的にはこの手のネタはあまり好きじゃないんですが、人に勧められ見てみたらすごい労作の上にとても分かりやすかった。これはお勧め。いや、だれに勧めたいのかはよくわかりませんが……。

この動画の素晴らしい点はふたつあって、第一にわかりやすい。ありがちなことではありますが、クライミングみたいな技術は言語化しづらいし、仮に体得できても細かいテクニックの詳細はなかなか人に説明できるものではありません。いろんなムーブや用語はあって、やってるそばでのアドバイスみたいなのはありがちだけど、技術はあってもアドバイスがヘタな人ってのはいくらでもいたりする。

説明がわかりやすいのはいいとして、それをMikuMikuDanceを使って見せるっていう労力にも脱帽。あれだけちゃんとボルダリングっぽい動画に仕上げるのは相当面倒くさいんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょう。足を動かすときに視線を足に向けたりとか、細かい部分がよく出来ているよな。

3DCGで説明するのには利点ももちろんあって、普通の撮影ではありえないアングルからの撮影が可能です。壁の向こう側から、みたいなのもできますからね。手足の細かい所作が見える点は素晴らしい。

ネタがネタなので見る人を選びますが、まあよく作ったよなあと感心しました。







アメコミと縦書き横書き

Posted by 向井 淳 on Monday, 19 July, 2010

そういえば昨日感想かいたアメコミ版ガッチャマンを読みながら思ったことだけど、英語のコミックってひどく読みづらい。なんか、英語で小説を読むよりもずっと心理的負荷が高い気がする(実際には、読むのにかかる時間は小説の方がずっと長いわけだけど)。

なんでかな、というのを考えるに、「英語(非母語)を読む」っていう行為には集中を要するからなんじゃないかなっていう仮説を立てている。つまり、コミックを読むとき、絵の中から吹き出しをさがして、それをちゃんと「読む」必要がある。読んでいる間は絵とかコマ割りの流れとかに目を入れられないので、セリフを読んでいる間は全体のリズムが掴めない。これが日本語(母語)だと、コマや絵全体を見ながら日本語もなんとなく読む、ということが自然にできるようになっている。まんがっていうのはそうやって読むんだと思うんだけど、非母語で書かれたコミックの場合、絵のいろんなところに注意を集中させて移動させていく感じになって、部分部分への集中が寸断されるようになり、これが疲れるんじゃないかと。

こういう認知的行為はわりと自然に行われている。たとえば英語がずらずら並んでいる中に日本語があると、僕らは簡単にそれを見つけられる。浮き上がって見える感じがするというか。もちろん英語話者にとってはそれは逆みたいで、J-POPの歌詞とかを見ると英語の部分だけ浮き上がって、まずそれを読んじゃうような感じになるんだとか、聞いたことがある。そういう部分のはなしかなーと思っている。

あと読んでいて気づいたのは、英語は横読みだが日本語は縦読みなんだなあということ。というのはコマを読む順番のはなし。四コマまんがほどじゃなくても、日本のまんがって基本的には縦方向にコマが進んでいく感じなのかも、って思った。もちろん、日本のまんがで横方向に読むところが例外かというとそんなことは全然ないし、そういうのは自然に読めるようにコマの割り方でもって作者がコントロールしている、ってのは大前提。ただ、日本のまんがとアメコミでは読者にインストールされた基本ルールが違うのかも。だから、こういうコマ割りだと読者はこう読んでくれる、という結果が変わることがある。こういうのは実例がないと説明しづらいんだけど……ただともかく、読んでいて「あれっ」てなることが何度かあって、ああそうか、横に読むんだ、って思ったところが今回は何箇所かあった。

とはいえ、邦訳されているコミックではそう感じたことはないので、たんに本作のコマ割りがヘタなだけ、というだけの話だったりして。あと、アレックス・ロスなどは日本のまんがやアニメの影響が強い作家だから、コマ割りもそれを意識した結果、かえって日本人にはわかりづらくなってしまったという説もあるかも?

ともかく、その辺の違いはちょっと面白いところかな、と思ったり。


アメコミ版ガッチャマン

Posted by 向井 淳 on Monday, 19 July, 2010

もう7、8年ぐらい前に何かの学会でアメリカに行ったときだかで、街角でガッチャマンのアメコミ版というのを発見しました。そのときはコレクションの第1巻だけを買いまして、帰国して読んだらわりと面白かった。けどそれっきりで、ほぼそのことを忘れてました。

先日、ふとそのことを思い出して全巻揃えてみました。ちょい古いのでお金がちょっとかかりますが、amazon.comのマーケットプレースで比較的簡単に手に入ります。

で、読んでみた感想ですが、けっこう面白かった。amazonのレビューでは「ストーリーはともかくアレックス・ロスの絵は素晴らしい」的なものがあったのであまり期待していなかったのですが。もちろんアートワークはとてもよくて、とくに表紙イラストなど異常にカッコいい仕上がりです。

ストーリーは基本的に原作と一緒で、宇宙からの侵略者である総裁X(とベルク・カッツェ)に率いられたギャラクターとガッチャマンが戦うというやつで、巨大メカもあればゴッドフェニックスもあり、科学忍法火の鳥もあるという。固有名詞はアチラのものに変わってますが、これはもともとガッチャマンがアチラで放送された時の単語と思われます。キャラクターの名前も組織の名前も全然違いますが、本エントリーではその辺は日本版に準拠してます。

基本の勘所は揃っていて、コンドルのジョーは両親をギャラクターに殺された過去を持ち、白鳥のジュンと燕の甚平は姉弟のように仲がよく、レッドインパルスの正体は大鷲の健の父親で、コンドルのジョーがバードミサイルを発射しそうになると「待て、冷静になれ」と止めるとか、まあそんな具合(このへんの設定は私も別に詳しくはないですが、ウィキペディアのガッチャマンの項など参照のこと)。

もちろん、総裁Xの正体および目的など細部はいろいろ違うわけですが。個人的にいちばんびっくりしたのはメインキャラになっている将軍というキャラ。ウィキペディアには出てこないので本作オリジナルと思われますが、本作ではガッチャマンは国連みたいな超国家組織に属しており、そこの大統領(?)のもとで南部博士がガッチャマンに指令を出すという具合。で、南部博士とは別に軍部をたばねる将軍がいまして、序盤はわりと南部博士につっかかったり対立するという流れになっています。

ところがこの将軍が途中から異常な能力を発揮し始めて、何事かと思っていると、実は将軍はある事故で死亡しており、こっちにも宇宙人が乗り移っていたことがわかる。彼らは総裁Xとは別の勢力で、ギャラクターの活動をなるべく地球で抑えておきたい事情から、南部博士やガッチャマンたちに何かと協力するようになる……というすごい展開になってました。

最後はわりと尻切れトンボ的ですが、ベルク・カッツェとガッチャマンの正面からの対決になり、窮地に陥るものの、科学忍法竜巻ファイターで撃退して勝利、みたいな流れ。ところが……という「まだまだ続くかも?」な感じを残しつつのエンドでした。このエンドは好きかも。

3巻の巻末にはウィッチブレイドとのスピンオフあり。ギャラクターが支配する地帯に潜入した白鳥のジュンにウィッチブレイドが埋め込まれて暴れまわるというストーリー。これもまあなかなか。

ちなみに例のアレもガッチャマン紹介のシーンで南部博士が言ってました。

The Gatchaman — The sudden warrior. Sometimes five, sometimes one. A living phantom, a white shadow.

「実体をみせずに忍び寄る白い影」はa white shadowなんですねー。ちなみに科学忍者隊はscientifically enhanced ninjaだよ。覚えておこう。


チャイナ・ミエヴィル『ジェイクをさがして』

Posted by 向井 淳 on Sunday, 11 July, 2010

『ペルディード・ストリート・ステーション』のチャイナ・ミエヴィルの短編集。

筆者のもとに誤配された封書。誤って開けてしまったなかに書かれていた様々な書類の断片から次第に明らかになる「ロンドンにおける”ある出来事”の報告」が個人的にはベスト。ネタ自体はほかの作家が描いていてもおかしくはないようなものだが、その場合はある種のロマンチズムが漂う作品になりそうなものだ。それがこの緊迫感をともなって描かれるのがミエヴィルの持ち味だろう。ほんとうに素晴らしい。本編はSFマガジンでも読んでいたけど、改めて読んでも面白い。

もうひとつ「ある医学百科事典の一項目」も個人的には好み。タイトル通り医学百科事典の一項目という体裁で奇妙な病気の来歴や歴史を描くというだけの作品ではあるのだが、こういう体裁の作品というのが好きなのは俺の趣味なのでこれはもう申し訳ありませんね。「あの季節がやってきた」は一言で言ってしまうとクリスマスものなのだけど、凡百のクリスマスとは一線を画す。その一線の画し方がミエヴィルらしい。こんな™にあふれた小説は初めてみた。

日用品にまぎれて様々な指令が下され、その背後の巨大な陰謀を感じる「仲介者」もよかった。この作品もそうだが、本書に収録された作品には、日常にひそむ奇妙なものとの遭遇といったストーリーが多く、それがまた主人公の妄想なのか本当のことなのか判別しづらい、といった作品が多く収録されている。上で紹介した「ロンドンにおける”ある出来事”の報告」もその系列だろう。

牧眞司さんは表題作の「ジェイクをさがして」をしてバラードの破滅三部作を引き合いに出していて、なるほどそういう意味ではニューウェーヴ的な作風なのかもしれない、などと思ってしまって、結局どれもそのように読んでしまった。「ジェイクをさがして」では、破滅したロンドンをさまよいながら、ロンドンがなぜ、どんなふうに破滅したのかについては一切触れない。ジェイクをさがしてロンドンをさまよい、それによって世界とのつながりを回復する。「仲介者」では世界はわれわれの日常と変わりないが、主人公は世界と断絶しており、誰からとも知れない指令によって主人公は世界とのつながりを取り戻す。主人公が目撃する災厄や悲劇はインナースペースなのかもしれない。

……ってのは牽強付会が過ぎるか。いずれにせよ、現実と隣接する異界となんらかのかたちで接触し、現実が侵食されていくタイプの物語が本書には多く収録されている。それが恐ろしい異界であればホラーになるし、さほどでもなければSFと呼ばれるのだろう。いずれにせよ、主人公はどちらかといえばもとの世界とのつながりは希薄で、異界のほうにこそ親和性があるような気がするのは気のせいだろうか?

ジェイクをさがして


大森望編『NOVA2』

Posted by 向井 淳 on Monday, 5 July, 2010

前回は言葉を濁したけど、今回は面白かった。細かな文句はあれど、それは個人的な趣味の範疇で、だいたいどれもかなり面白く読んだ。

とにかくもう驚くというかびっくりしたのは倉田タカシ「夕暮れにゆうくりなき声満ちて風」。解説ページとともに読みたい。全部は読んでないうちに小説の感想を書くのは信条に反するのだが、小説なのかどうかはわからないのでいいのかもしれない。いやもう一目で笑っちゃいましたね。中身もいくらかは読んだけど、なんともいえない感じでぐるぐるとループしていく感じが楽しい。

くだらなくてよかったのは田辺青蛙の「てのひら宇宙譚」の、とくに「邂逅」かな。それから小路幸也「レンズマンの子供」はどこか懐かしい感じすらするジュブナイルSF。ある意味でこの本に収められた作品のなかでは一番ストレートなSFかも。こういうのがあるのはいい。

曽根圭介「衝突」もよかった。破滅と絶望だけの話であり、具体性は皆無の雰囲気だけの物語だが、雰囲気がよく出ている。

というわけでNOVA2は1よりずっとお薦め。なんだか、ここに挙げなかった作品も含めて良かった。SFマガジンなんかにはあまり載っていない作家が多いのも特徴で、まえがきにあるように1が「守りに入っている」のと好対照となっていて、いいんじゃないでしょうか。

3も期待あげ。

NOVA 2—書き下ろし日本SFコレクション (河出文庫)


妖精を見るには妖精の目がいる

Posted by 向井 淳 on Thursday, 1 July, 2010

実は2年ぐらい前からロッククライミングという趣味をやっている。主にジム通いだけど、ボルダリングもやるしロープもやっている。はっきり言ってまるきりヘタだし、このまま何年経とうが上達しないままだと思うが、これはこれで楽しい。

それで、他人のやっているのを眺めていたりするのだが、クライミングが上手い人というのは本当にすいすいと登っていく。あまりにも自然な体の動きでいともたやすく登って行くから、下から見ていると「なんだあれぐらい自分にもできるよ」とか思う。ところが見るとやるとじゃ大違い、やってみると全然できない。

下から見上げる素人は、見るべきところが分かっていない。ほんとうに重要なポイントは、実は体重のかけ方だったり、足をもう数センチ右にもっていくことだったりするけど、そういうポイントは素人の目には止まらない。だから、見ているようで、真似できるほど見えてないわけ。ある程度の経験があってはじめて、見て勘所がわかるようになる。

と、偉そうなことを書いたけど、その辺は自分もまだまだであり、その辺がいつまでも下手な理由のひとつだと思う。たぶん、うまい人には想像力がある。ホールドだけの状態から、もしくは他人が登ってるのを見て、自分がどう動くべきか想像できる。どういう姿勢だと楽になるかということがわかるのだろう。

先日書いた、翻訳のうまさにも、たぶんそういうところがある。自然な訳文を手にしていると、それが出てくるのは本当に自然で当たり前に見える。原文にたいして、いかにも自然な「あるべき言葉」がそこにあるだけなので、その対応関係は一目瞭然だ。でも英文だけを前にして本当に自然な日本語をひねり出すのは、もちろん尋常なことではない。「なんだこんなことか」と思って自分でやってみると、いかに大変なことかということがわかるはずだ。

たぶん、いろんな専門分野について、同じことが言えるのだと思う。経験の積んだ専門家がいともたやすくやってのけているからといって簡単なわけではない。それが簡単に見えるっていうのは、単に見えてないだけなのだ(本当にむちゃくちゃデキる奴だった、という可能性もあるけど)。専門家の凄さはわからないけど、素人の無様さなら見るだけでよくわかる、というのも同じかも。

それでいったい、専門家はどうやってそんな凄い能力を身に付けられるのか、って思うんだけど、けっきょく楽な道はなくて、地道に練習を積み重ねるしかないってのも同じなのかな、とか。最近そんなことを思っている。


S-Fマガジン2010年8月号

Posted by 向井 淳 on Sunday, 27 June, 2010

浅倉久志追悼号。

浅倉さんの訳した作品5編(キース・ロバーツ「信号手」、R・A・ラファティ「田園の女王」、リチャード・グラント「ドローテの方程式」、ロジャー・ゼラズニイ「このあらしの瞬間」、ジェローム・K・ジェローム「自転車の修繕」)の収録に加え、伊藤典夫、森優、鏡明、高橋良平の追悼エッセイ、大森望、中村融、山岸真による追悼エッセイ+収録作品解説、そして浅倉久志翻訳作品リストまでついている。浅倉さんは生前、自分で自分の仕事をノートにつけて記録していたらしく、おそらくそれがベースになっているのであろう翻訳作品リストは「浅倉久志・編」のクレジットになっている。

しかし、読んで考え込んでしまう特集でもあった。翻訳家の仕事とその役割について。

浅倉さんの翻訳がうまいと誰もが言う。そこに何ら異論はない。実際、読んでいても実に自然に読める。でも少なくとも僕は、よくわからない。翻訳がうまいということについて、原文もない状態で、自然に読める文章を手にしていて、それが凄いことだということがどうも頭に入ってこない。作品自身の面白さを越えた浅倉さん自身の手腕のようなものは感じづらい。

もちろん、翻訳作品のなかには技工を凝らした訳業というのもある。もとの作品に仕掛けられた技工を日本語に翻訳するにあたってこうした、という仕掛けもあろう。極端な例を挙げれば、「eを全く使わずに書かれたvoidという作品」を「イ段を使わずに訳した」『煙滅』という作品のように。そういう訳業もそれはそれで素晴らしいが、浅倉さんの翻訳家としての方向性そのようなものではなく、できるだけ翻訳家の姿が消えるような自然な翻訳が理想だったと伺っているし、少なくともここで選ばれた作品は、一読してわかるような大げさな仕掛けで読者を驚かせるような作品選択にはなっていない。浅倉さんにそんなものは不要なのだ、ということなのかもと思う。だがそれだけにその訳業の凄さというのは伝わりづらい。

ヘタな翻訳というのは一読して分かるが、うまい翻訳というのはその「ヘタな翻訳の少なさ」としてしか読者の目には見えてこない、ということああのかもしれない。改めて読み返せば、原文がどうであったのかすらわからない自然な日本語となっているところなど本当にすごいことだと思えるのだが。おそらく翻訳の経験があればあるほどこの凄さというのはわかってくるものなのだろう。

そんなことを考えさせられた特集だった。

S-Fマガジン 2010年 08月号 [雑誌]


ヴィクトル・ペレーヴィン『宇宙飛行士オモン・ラー』

Posted by 向井 淳 on Sunday, 27 June, 2010

うすよごれた地上の現実がいやになったら宇宙に飛び出そう!

子供の頃から月にあこがれて宇宙飛行士になったソ連の若者オモンに下された命令は、帰ることのできない月への特攻飛行!

アメリカのアポロが着陸したのが月の表なら、ソ連のオモンは月の裏側を目指す。宇宙開発の競争なんてどうせ人間の妄想の産物にすぎないのさ!? だからロケットで月に行った英雄はいまも必死に自転車をこぎつづけてる!

ロシアのベストセラー作家ペレーヴィンが描く地上のスペース・ファンタジー。

ペレーヴィンの作品はどれもそうだから、本作にも寓意が込められていると思う。だがその寓意を真剣に読み取る必要は、この本の場合そんなに必要ない。宇宙飛行士が必死になって無人機のはずの自転車をこぐというシュールな光景だけでそうとうおかしい。そこがいい。

そのシュールな光景をいろどり、補強するディティールがいい。ロケットの一段目を担当する宇宙飛行士の話とか。ピンク・フロイドの音楽についてひとしきり盛り上がるところとか。宇宙飛行士訓練学校の教官の妙に理不尽なところとか。ソ連の理不尽な命令、というのは一種の定番ギャグと化しているが、それをきっちりとなぞっている。

ある一行が火星に向かって飛んでいたんだ。丸窓から向こうをのぞくと、ようやくそばまで来たことがわかった。そしてふと振り返ると、全身赤ずくめの小柄な男が厚刃のナイフ片手に立っていて一言、「どうされました、ソヴィエトから出るおつもりですか?」

エピソードはユーモラスで、全体は乾いた笑いで覆われている。ところが主人公も含めて全員が全員、いやに生真面目なのだからよけいおかしい。

本作には印象的な単語やモチーフが繰り返し登場したり、わかりやすい寓意のヒントみたいなものが込められている。深読みするならそういうところをつつくことで深読みもできると思うけど、今の段階ではわたしはそこまで到達していない。そういったことは解説にも書かれているから、そちらでいいのでは、という気がする。

ペレーヴィンの作品でいうと僕は『恐怖の兜』が好きで、あれもシュールな笑いに包まれた作品だった。『チャパーエフと空虚』はちょっとピンと来なかった。チャパーエフという歴史上の人物をよく知らないという問題もあるにせよ、おそらくたぶん、そういう笑いとは無縁の物語だったからだろう(『虫の生活』と『眠れ』は未読)。というわけなので、自分が作者の意図した読み方をしてるのかはよくわからないというか、たぶん思いきり外している。でもやっぱり、このユーモア感覚はやはり好きだな。

たぶんモンティ・パイソンとかが好きな人は好きだと思います。

宇宙飛行士オモン・ラー (群像社ライブラリー)


アイアンマン2

Posted by 向井 淳 on Monday, 21 June, 2010

公式サイト

先週見てきました。いやー素晴らしかった。

知人を中心に「前作と比べると……」的な感想をよく見かけたのですが、全然そんなことはなかった。むしろ前作より上かも、とすら思いました。基本的にこの映画は素敵なガジェットとイカしたCGを楽しむものなので、正直なところストーリーというのはどうでもいいと思うのですね。

前作はテロリズムに加担していた自分を反省する的な展開だったのが、今作はアメリカ国防の話になって、政治色は強まってる気もしますが、その辺の展開は序盤で済ませてしまい、あっという間にストーリーはトニー・スタークの個人的な事情に焦点をあわせてしまいます。そんなわけで、ストーリー的にはいーかげんというかそれ何も解決してないんじゃ……という気もするのですが、それを気にしない迫力のCGが楽しめました。

トレイラーにも出てきたスーツケース型パワードスーツもカッコよかったし、ミッキー・ローク演じる今回のヴィランもなかなか良かった。ラストのドッグファイトはちょっとタルかったですが、変な必殺技が炸裂したりしてたし、満足、満足。それにしてもお金かかってるなーとつくづく感じました。

マーベルのクロスオーバーは着実に進んでいて、途中にキャプテン・アメリカのアレがちらっと登場したり、例によってエンディングの後におまけ映像があったんですが、たしかにこれは初見でわかった日本人が何人いるのか疑問かも。かといって変に補足するのも変だしなあ。痛し痒しですね。

そういえば今回のアイアンマン2はオラクルが全面サポートしていますが、劇中冒頭にちょっとだけ「やあラリー」といって、ラリー・エリクソンが登場してました。たぶん本物だと思う。すごいなあ。しかしオラクルのユーザ(というかオラクル導入の決定権を持つ人たち)に訴求するんだろうか、このキャンペーンは……。

ところで、今回合わせで出ていた『アイ・アム・アイアンマン』も読みました。基本的に映画の第1作目のストーリーを忠実になぞったコミック化で、まあ普通。イラストは精細でかなり映画に忠実ですが、映画の素晴らしさはガジェットのビジュアルだけでなく、あれがこうゴチャゴチャ動いてくれるところなのでイラスト(コミック)だとちょっと見劣りするな、と思いました。ただ、本書に掲載されているスピンオフ作品はなかなかの掘り出し物。映画1作目ではエンディングの後になんか眼帯のオッサンがいきなり現れて視聴者を面食らわせますが、あのオッサンが1作目の他のシーンの裏でいかにトニー・スタークを監視し、どういうことを考えてたかを描いた作品で、映画原作のスピンオフとしては非常に正しい出来栄え。ちょいお薦め。