オーソン・スコット・カードの「翻訳」記事がやばい件

This entry was posted by on Sunday, 10 April, 2011

SF作家のオーソン・スコット・カードがアニメ『カウボーイ・ビバップ』を絶賛しているという紹介記事があるのだが、どうもその訳が変だというので見てみたら想像を絶するひどさで驚いた。ここで紹介をしようと思ったが、そのひどさをいしがめさんが詳しく解説しているので、まずそれを見ていただこう。

http://d.hatena.ne.jp/ishigame/20110409/p1

理由がなんであれ、これはちょっとありえないレベルの酷さだ(最後の段落なんて、ほとんどこれは「訳者」の主張だろう)。そして、いくつかの元記事への反応で散見されるパート(「SF嫌いの妻」といった表現や菅野よう子の音楽を褒めている言葉)が原文に見当たらないか、ごく弱い表現だということもわかる。意訳というより、カードが言いたかったのはこういうことなのだろうという思い込みで混ぜ込まれた言葉が逆にバズを引き起こしているわけで、それはそれで興味深い現象ではある……。

この「訳者」はビバップをみたことないんじゃないのか、的なことも言われているけれど、それはなさそう。でなければ位相差空間ゲートなんていう単語は出てこないだろうし。単に英語を読んで理解する能力が皆無なだけではないかと思われる。

ちょっと興味深いと思うのは、この「訳者」は変な小細工というか、訳文にいかにもありそうな妙な言い回し(「我が家のおチビさん」みたいなやつ)には長けているところだ。そういうところを取り繕うことに上手くなって、原文の意味やニュアンスを日本語に移すところの能力がまったく欠如している。これは自分自身の経験でもあるが、こういう翻訳文体をある程度読んでから英語を読むと、「ああこういう表現が「おチビさん」て奴か」と早合点したりする。もしくは意味もなくこういうことをやってみたくなる。だけど、そういうのはまるで無意味なトリックでしかなくて、しかも実は単に読みにくいだけだ。でもついやっちゃうという心は少しだけ分かる。

英語を読むときに、わからないところを飛ばすとかざっくりとした理解で十分、というのはその通りだが、それで翻訳はできない。翻訳家というのは特殊な専門職であって、バイリンガルだったりふだんから英語を読み書きしている職種だからすぐなれるというものではない。翻訳するためには、原語で書かれた文章をまずきちんと細部まで理解しなければならない。次に、その理解した内容をきちんと日本語で表現できなければならない。この「訳者」は、この2つの段階のどちらの能力も不足している。

英語を読むときに必要なのはざっくりとした理解なのは間違いない。だけど実は英語を訳すときにまず必要なのは生硬な直訳をつくることなんだと思う。呼吸でもするように直訳がきちんとできるようになれば、その先にちゃんとした翻訳があるのだろう、と、そんなことを思っている。

実は最近、技術系のブログで、直訳ではあるのだがあまりにもニュアンスが捉えきれてなくていかがなものか、と思ったこともあったので、ほんとうにその先にちゃんとした翻訳があり、そこは誰もが到達可能なのか、ってのはちょっとよくわからないと思ったりもする。けど、こんな無茶苦茶よりはダメな直訳のほうがなんぼかマシだよなあ……。

いしがめさんの推測によれば、Google翻訳を使っているのだそうだ。GoogleにしろExciteにしろほかのどんな翻訳サービスにしろ、現状でそこまでのクオリティではない。大雑把になにを言わんとしているのかを理解するのには向いている。細かいニュアンスはわからなくても、ざっくりどんなことを言っているかはわかる。だが、現状でもまだ改善すべき点は多いし、そのレベルと翻訳との間には天地ほどのひらきがある。それに、もっと大事なところとしては、機械翻訳も、翻訳とかそんなだいそれた所は、いまのところ目指していない。

極端な例をあげると、ジョルジュ・ペレックの void ”La Disparition” という文学作品がある。この作品の特徴は、本文中にただの一度も e という文字が使われていないということにある(フランス語作品)。これを仏英翻訳したときに、 e が使われていないということは保証できるか? 機械翻訳ではそんなことはできない。そんなことも目指さない。ただ、中に書かれているのがどんな内容なのかがわかるところを目指している。いっぽうで、各国語への翻訳では各翻訳家はとても気を使って翻訳をした。おおむね、原文と同様にe(またはそれに類する母音)を使わないようにするか、その原語で最頻出の母音を使わないようにするか、のどちらかが採られているらしい。つい昨年、日本語にも『煙滅』というタイトルで翻訳され、文中では「い段」が全く使われていない。

機械翻訳じたいはそう悪い技術でもないし、私も韓国語や中国語の記事を見るときには使っている。細かいことはどうしてもわからないが、大まかな概要はなんとなくわかる。そういえばまえに「金庸が亡くなったらしい」という噂を見かけて中国語のニュースを調べた結果、どうもこれはそういう噂が流れたけどデマだったという話らしい、と自分で結論づけて無視した。それぐらいならわりと使えるレベルだ。だけど、翻訳の下役に使えるレベルかというと、それすらまだまだなんだよね。

こんなことを書いているうちに少し、翻訳とバイリンガルの言語機能について、つらつらと考えたりした。結論はない。

私も日常的に英語の読み書きをしている仕事をしているが、第二言語の文章の理解というのはなかなか興味深い知能活動なのかもしれない。よく考えてみると、英語の文章を読むとき、とくに翻訳をしているわけではないようだ。自分は日本語でものを考えているが、英語の文章を読んだときには日本語として理解しているわけではない。かといってクリアな英語でもない気がする。少なくとも、いくつかの語は日本語の対応語を明示的には持っていない。じっくり考えないと、その概念を日本語でなんと読んだらいいのかはよくわからない。

こんなイメージだ。ある種の概念みたいなものが脳内にいろいろあって、単語はその概念へのラベルだ。同じ概念に日本語と英語のラベルづけがされているが、一部の単語は日本語しか対応付けられていないし、一部の単語は英語にしか対応付けがない。これはあくまでもイメージなので、対応付けがない場合は頑張るといろんな組み合わせで表現ができる。「じっくり考えると」というのはそういう意味だ。

話を翻訳に戻すと、しかしながら、こういう「じっくり考えた」言葉というのは複雑な文みたいな構造になっていてちゃんとしていない。もとが英語では簡単なフレーズでバシッと決まる言葉だったりすると、日本語のこういうごちゃごちゃをきちんと整理して、バシッと決まった単語にしないといけない。それが翻訳ということだ。だが、なにを言わんとしているのか理解するのが目的なら、いちいちキチンと翻訳しなくても、ごちゃごちゃした文でもかまわないわけだ。

ところで、うちの会社は外資系なので、いろんな経歴の人がいる。アメリカで長年働いてきた日本人がちょっとした事情から日本で働いていることもある。バイリンガルもいるし、日本人ではないが日本に住んで10年、日本語に不自由しないという人もいる。完全にわたしの憶測だが、アメリカで長年働いていた人たちの場合、英語がかなり定着していて、心内語も英語と日本語のちゃんぽんになっているんじゃないだろうか。それぞれに、それぞれ興味深い脳内活動があるんじゃないかと推測している。

というわけで、結論はなく唐突におしまい。

2 Responses to “オーソン・スコット・カードの「翻訳」記事がやばい件”

  1. はやし(哲)

    ぺレックの”void”?と気になって確認しました。”A Void”は英語題で、原題は”La Disparition”ですね。

  2. おっと。前に何かの英語からの翻訳書にそう書いてあったので間違って覚えてました。と言う言い訳 :-P