スタニスワフ・レム『天の声・枯草熱』

This entry was posted by on Monday, 24 April, 2006
>「天の声」を読了。『高い城・文学エッセイ』を読んでいて思ったのは、「レムは小説を書くように文学論を語る」ということだったのだが、『天の声』を読んで思うのは、まるで批評のように小説を綴るということだった。文学エッセイの中身から薄々感じていたのだが、レムにとってSFというのは科学論のためのものであるのだろう。だから、物語というような「夾雑物」を取り除き、フィクション(架空の設定)で科学論を語ることにこそ、レムがSFを書く目的になっている。 > >「天の声」には、通常の意味での物語はほとんど存在しない。小説全体はある高名な学者の自伝という体裁が取られる。粗筋は一言で言うと「宇宙からやってきた謎のメッセージを解読しようとするが、けっきょく解読できない」というだけ。ただしこの粗筋から、よくある「謎の解明に向けた科学者の苦闘を描く」という物語を期待するとそれは完璧に誤り。ソラリスのような夫婦の物語めいたパートもいっさいなく、端的にいうと中身は、登場人物に仮託してレムが語る科学論である。 > >おれもそうだが、ふつうの読者は科学論を読みたくてSFを読んでいるのではなく、物語を読みたいわけだ。しかし、レムはそういった、科学に仮託して物語を消費したいというタイプの人間は軽蔑しきっていて、その態度を隠そうともしない。その態度はいっそ潔いくらいだ。少し前にイーガンの『ディアスポラ』に対して「確かに凄いには凄いが、これは物語としてはどうなのだろうか」という感想を抱いたことを >述べた >。その感想を撤回するわけではないが、イーガンはレムに比べると徹底度という点ではまだ劣るということだろう。 > >「物語としてはどうなのだろうか」といった問い掛けはレムの前ではもはや無意味だ。というか、正直に告白するが、これが文学なのかどうか、おれはよくわからない。文学的価値もよくわからない。面白いのかどうかも答えようがない。 > >レムは徹底しているし物凄い。天の声について具体的なことはいっさい語らず、逆に語らないことによって天の声を解読することの不可能性を語っている。 > >でも、まあ、みんなレムみたいだったら疲れちゃうよな。 >

Comments are closed.