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	<title>val it: α → α = fun</title>
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		<title>『代替医療のトリック』</title>
		<description><![CDATA[http://ohtsuki-yoshihiko.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-f7b8.html
いや、これもしかして『代替医療のトリック』の宣伝のためにあえてボケてるのかと思ってしまいました。こんな不毛なことにならないためにも、ぜひサイモン・シンのこの新作を読みましょう。

この本でサイモン・シンは鍼灸も含めた4つの「代替医療」を検証しています。ただ、検証といっても大槻教授のように不毛ではなく、実際に効くかどうかというところを調べます。
この本で一番重要なのは、「ある医療行為に効果があるか、どうかということを検証する」ということを明確に説明しているところです。繰り返し本の中で述べられているように、数百年も妥当な処方だと思われていた瀉血は検証の結果、効果がないということがわかったのであり、その時点では科学的な妥当性は何もなかった「壊血病にはレモン汁」という処方も、検証を経たところ効果があるということがわかり、実際にはレモンに含まれるビタミンCが大事ということまで今はわかっているわけです。
とはいえ、検証というのは簡単に言えば事例をあつめるということですが、事例の集め方、妥当性、プラセボ効果など厄介な問題はいくつもあって、専門家でも誤ることは多いのです。豊富に事例が紹介されているのがこの本のいいところですが、そうした事例によって、一見単純に見える検証に対してどんな問題が起こるのか、それを回避するにはどうしたらいいかといったことが大雑把に理解できるようになっています。
また、読むと驚かされるのは、歴史のある代替医療であっても検証というのは最近でもずっと行われていて、時に結果が変わることすらあるということです。たとえば鍼灸は歴史がありますし、西欧にも70年代には広まっていったわけですが、2003年にはWHOが「何らかの効果はある」と認める報告を提出しました。ところがその後の研究によって、やはりごく限られた症状(吐き気など)以外にはプラセボ以上の効果がないことがわかった、みたいな話が飛び出します。正直、検証のための道具立てや方法なんてとっくの昔に確立されていたものだと思っていたので驚きました。
プラセボといえば、この本で素晴らしい点のひとつは最終章のプラセボに関する議論も挙げられるでしょう。プラセボと言っても、それで実際に効果があるんだったらいいんじゃないか？　あえて、なぜ代替医療を排斥しないといけないのだろう？　これにサイモン・シンは理詰めで答えて行きます。
とてもいい本でした。超おすすめ。
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		<link>http://www.jmuk.org/diary/index.php/2010/03/04/trick-or-treat/</link>
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		<title>where programming language matters</title>
		<description><![CDATA[すっかり遅くなったけど、この辺の話題

Lispはなんとなくすごそうというイメージがあるけど、実際にはそれほどでもない
仕事でLispを使うこと
仕事でLispを使うこと 2
「Xで使うべき」だからといって「X以外では使うべきじゃない」ってわけじゃない。けれど…

で、俺にはShiroさんの文章はあまり説得力を感じない。というか、俺はShiroさんのLispへの愛を感じた。Lispで仕事をしたいと思うなら、そういう環境がないと嘆くのではなく、積極的に探すなり、作り出すなりするべきだという主張だと受け取った。そうである以上、ここで書かれたLispの強みなるものも結局はShiroさんの感じたところであり、個人的なものにならざるをえない。それはあまり他人が納得できるものではないし、納得してもしょうがないものだ。
ただ、やっぱ、俺はプログラミング言語には興味がないので、それはもう前提からして違うなと思いました。
俺は「Lispの仕事をしたい」とか「Haskellの仕事をしたい」とかいったような、プログラミング言語で仕事をえらんだことはないですね。興味のあるところはプログラミングによって何をするかであり、それはたとえばIMEを作るにはどういう要素技術が必要でどういうことをする必要があるかとか、そういうことになるかと思ってる。結果的にLispが最善の環境になったらLispはやるだろうし、それだけのことでは、というのが正直なところ。つまりまとめてしまうと「first priorityの前提が違いますね」というだけの話なわけですが、みんなそこまでプログラミング言語が第一なのかなぁ。それは「機会を狭めている」し「もったいない」とやっぱり思ってしまうけど。
&#8212;-
それはそれとして、これはすでにバズってたんだけど、JVMに対する感じ方にも違いがあるなと思いました。JVMはそれなりのプラットフォームとして確立した感じがある。ほかのVMと比べて普及もしているし、いろんなノウハウも蓄積しているしね。まー10年後とか20年後はしらんけど、しばらくこの情勢は続くんじゃないだろうか。
でね、JVMが普及して、プラットフォームとして確立しているとします。たとえば、ウェブアプリを書くならAppEngineは相当楽で、AppEngineだったらPythonかJavaなわけですよね。そういう業界を考えると、最終的にバイトコードに落ちるのであれば、もとはどんな言語で書いてもいいのではと思っています。極端に言えばメンバー全員が違う言語で書いたっていい……そりゃあコードレビューとかもろもろの点で普通にアウトだけど、極論を言えばそうなる。
つまり、足回りの部分が共有され、インターオペラビリティが確保されることで、プログラミング言語を選ぶ自由度はむしろ増していて、だからこそClojureやScalaのような言語には大きなチャンスが広がっているのではないかと、そんなことを最近は考えています。
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		<link>http://www.jmuk.org/diary/index.php/2010/03/02/where-programming-language-matters/</link>
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	<item>
		<title>S-Fマガジン2010年3月号</title>
		<description><![CDATA[
英米SF賞の受賞作特集。
ナンシー・クレス「アードマン連結体」
年はとっているがまだまだ元気な物理学者のヘンリー・アードマンは、最近奇妙な現象に見舞われていた。気を失ったり、不思議な幻覚に見舞われる。元気なつもりだったのだがもう年なのだろうか。いや、何かがおかしい、それにどうもほかの老人たちにも異変が起きているようだ……という導入から始まるストーリー。齢80歳を越えると人は新しいステージに進化する、というのはちょっと珍しく、なかなか面白い。ところで科学的に微妙な訳が見られるのが気になった。宇宙時間とかさあ。
ジェフリー・A・ランディス「マン・イン・ザ・ミラー」
いやぁ、ラリー・ニーヴンが書いてないのが不思議な物理SFですね。お話の筋は無きに等しく、放物面に落っこちた主人公がどうやって脱出するかというシンプルな話。シンプルというよりもプリミティブというか、むしろたんに物理パズルというべきかもと思いますが、まあ、こういう話は俺、嫌いになれないんですよね。
キジ・ジョンスン「26モンキーズ、そして時の裂け目」
エイミーは26匹の猿をつれてショウをやる。ショウのお題目は、26匹の猿が脱出不能なバスタブから一瞬にして消え去ること。でもエイミー自身もどうしてそれができるのかはわからない。猿たちは勝手に消滅し、しばらくすると戻ってくる……。ラストシーンがちょっとよかった。
ジェイムズ・アラン・ガードナー「光線銃―ある愛の物語」
いやーこれはいいね。グッとくる。森で光線銃を拾ったジャックは、ヒーローになるため森で独りで体を鍛えたり、光線銃を解明するために勉強したりする(笑)。でも成長すれば女の子と仲良くなる機会もあったりして、じゃあ光線銃はどうするんだ、鍛錬はどうなった、みたいなことになったりならなかったり。心の奥に中二病を隠し持っているSFファンみたいな人種にはこういうのは大変ウケると思いました。
&#8211;
今月号はこの四編ですが、ノヴェラ2本、ノヴェレット2本というセレクトなためそれなりに読み応えがあります。ほか、先日来日したテッド・チャンのインタビューもあり。
S-Fマガジン 2010年 03月号
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		<link>http://www.jmuk.org/diary/index.php/2010/02/15/sfm201003/</link>
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	<item>
		<title>高慢と偏見とゾンビ</title>
		<description><![CDATA[
刊行前に軽い紹介をしてましたが、ようやっと読了。いやー、キワモノでしたな。しかし笑える。
『高慢と偏見』についても、改変についても↑リンク先ですっかり紹介してしまいましたが、読んでみて思ったのは改変度はけっこう抑えめ。「85%はそのまま」という触れ込みも納得で、シーンレベルで書き換えられていたりする部分は少なく、ほとんどの改変は単語の置き換えであったり、ちょっとした表現を変えているだけだったりする。それでも、冒頭の箴言からしてゾンビについての文章に改変されていたり、ところどころに差し込まれる挿絵も、19世紀風を装っているが微妙にヘタな絵で、たいへんにB級テイストの味わいになっていて素晴らしい。
で、そうはいっても骨格はほとんどそのままなので、ようするにストーリーラインもそのまま。ゾンビ禍によって滅びつつあり、ベネット家だって長い間中国で少林拳の訓練を積んでいたわりに、結局登場人物はどいつもこいつも誰と誰が結婚するだの、誰は金を持ってるだのといったことにしか興味を示さないという異常な世界に仕上がっている。そこをどう取るかですが、むしろそのイビツさを愛でるべきではないかと思いました。そういうわけで、読むなら原作の予習から入りましょう。原作を読んでいれば「そこがそうなりますか」と笑うことは請け合います。「娘たち！　死の五芒星だ！」
ところで、改変パートでちょっと感心したのはシャーロット。シャーロットの身の振り方にはかなりの改変が施されており、原作ではなんとなく印象の薄かったこのキャラを上手く生かしているなあと。いや生かしてはいないのだが、なんというか……。
ところで本作、映画化決定だそうですが、何の冗談なんでしょうか。あと日本語版公式twitterアカウントもいい具合にハジけていていい感じです。
高慢と偏見とゾンビ
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		<link>http://www.jmuk.org/diary/index.php/2010/02/12/ppz/</link>
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	<item>
		<title>身代わりのヒーローたち</title>
		<description><![CDATA[『侍戦隊シンケンジャー』はとても興味深い作品でした。それまでシンケンレッドとして活躍していたはずの殿様が、終盤になって実は志葉家とは縁もゆかりもない身代わりだということがわかり、本物の志葉家当主である姫様がやってきて一方的に全権を掌握、当の(偽)レッドも含め、主人公たちがこの事態をどう受け止めるかということが描かれました。
そもそもシンケンジャーでは、代々シンケンジャーを受け継いできた主人公たちだけがモヂカラというパワーを使いこなすことができ、敵と戦うことができるという設定でした。とくにレッドである志葉家は侍たちの棟梁であり、また志葉家の当主のみが敵の大ボスを封印することができるパワーを持つことができるとされています。そのわりに、思いこせば物語開始前からレッドだけ独りで戦ってきたなどという「切り札なんだからもっと大事にしろよ」という妙な設定がありましたが、実は身代わりだったので問題なし、とは想像だにしていませんでした。
それでふと思ったのは、シンケンジャーのメインライターである小林靖子の書く戦隊は身代わりのネタが多いなということです。
たとえば『星獣戦隊ギンガマン』。ギンガマンでは「アース」という魔法みたいな力を使いこなす部族で、特にその扱いに優れた五人の者がギンガマンに変身して戦うという設定ですが、ギンガレッドとなったリョウマもまた身代わりでした。リョウマの兄、ヒュウガが本来はギンガレッドとなるはずでしたが、第一話で敵組織の襲撃にあい、リョウマに全てを託して地面に割れた亀裂に落下。リョウマは兄の代わりにギンガレッドとなり、戦うことになります。リョウマは才能においては兄には劣るとされていたのですが、やがて成長し、一人前のヒーローとして敵組織との戦いに終止符を打ちました。
『未来戦隊タイムレンジャー』のストーリーは若干複雑で、複数の身代わりがあります。タイムレンジャーでは、西暦3000年から不法な手段で西暦2000年にやってきた時空犯罪者たちを取り締まるタイムパトロールたちの活躍が描かれますが、ただタイムレッドのみは西暦2000年に属している竜也(タツヤ)という男でした。本来はタイムレッドは西暦3000年で時間保護局の局長を努めるリュウヤがなる予定でしたが、彼は第一話の混乱によって西暦2000年に来ることはありませんでした。竜也はリュウヤの遠い祖先であり、リュウヤのかわりにタイムレッドとして時空犯罪に立ち向かうことになります(ちなみに、両方とも永井大が演じた)。
タイムレンジャーには「六人目の戦士」としてタイムファイアーというのが存在します。タイムファイアーに変身するのは滝沢という男で、竜也の知己かつライバルという関係にありました。そもそも竜也は西暦2000年で絶大な力を誇っていたコンツェルンのオーナーの家系で、しかしレールの敷かれた人生に嫌気がさして出奔していました(本論には関係ないですが、この「レールの敷かれた人生」と時間ものSFにありがちな「本来の歴史」を絡めて描いた手腕は見事だったと思います)。一方、竜也の父はその財力からシティガーディアンという組織を結成、時空犯罪者たちに自力で対抗を試みるようになります。滝沢はシティガーディアンに入隊し、竜也の父に目をかけられて出世していった野心家で、滝沢と竜也は対照的に描かれます。タイムファイアーも六人目の戦士としては珍しく赤色を基調としたカラーが採用されたのも、この対立関係を表現しています。
さて、戦いは苛烈を極め、最後にはついにタイムファイアーこと滝沢は戦死します。ここで明らかになったのは、滝沢もまた身代わりだったということです。本来はリュウヤが西暦2000年に来訪し、タイムファイアーとして活躍するはずでしたが、タイムファイアーが最終的に戦死するという歴史的事実を知ってしまい、自らの死を回避するためにタイムファイアーとならないことを選択します。そこで浮いてしまった変身アイテムを偶然拾ったのが滝沢という人物だったのです。
まとめると、タイムレンジャーでは竜也とリュウヤ、竜也と滝沢、リュウヤと滝沢という三種類の身代わり関係が描かれていました。
で、また、今回の影武者です。シンケンジャーにはほかにも、「本来は姉が戦うはずだが病弱で無理になってしまったので妹が代理で参戦」したシンケンイエローという身代わりの展開もありました。ここまで来ると意図的にやってるのかという気もします。
そもそも戦隊とかのようなヒーローものにおいて、人はどうやってヒーローになるか、ヒーローとはなんなのかという問題があります。東映でヒーロー物のプロデューサーをやっている白倉伸一郎は『ヒーローと正義』という本でこの問題を取り扱い、ヒーローと怪物は両義的だと断じました。ともに異様なパワーをもち、異様な姿形をしている。けれどヒーローをヒーローと認識するのは、それが「わたしたち」の側に立っている、つまり僕らの味方をしてくれる怪物がヒーローで、それ以外が敵ということです。
白倉氏がプロデューサーとして手がけた『仮面ライダーファイズ』は、この本が書かれた当時に放映されていた番組で、この視点と極めて親和性の高い作品です。この作品ではオルフェノクと呼ばれる怪人たちが跋扈していて、それと仮面ライダーたちが戦うという設定です。ただ、変身アイテムであるベルトは、主人公に属しているわけでもなくて、他の誰かの手に渡ればその誰かも仮面ライダーに変身できるという設定でした。ただし誰でも変身できるわけではありません。実はオルフェノクしか仮面ライダーに変身することはできず、主人公もずっと周囲に隠していたがオルフェノクだったということが物語終盤で明かされます。結局、ファイズの物語はオルフェノク同士が人間たちの扱いをめぐって対立するというものだったわけです。
こうしたストーリーの基本コンセプトは、生まれついての怪物みたいな存在がまずある、というものです。そういう怪物たちのうち「正義」の心を持つのがヒーローなわけです。しかし、ヒーローものがすべてそうなわけではありません。異様なパワーは本質ではないという立場を小林は取ります。戦隊物ではありませんが、『仮面ライダー龍騎』がその一例になるでしょう。龍騎は典型的な巻き込まれストーリーで、本来の「龍騎」と変身する人物は物語開始時点で既に死亡、主人公は変身アイテムをたまたま入手してしまったために戦いに巻き込まれるようになります。龍騎は13人の仮面ライダー同士のバトルロイヤルなのですが、こういう参加の仕方をしたのは彼ひとり。バトルロイヤルに明確な目的を持たない主人公は右往左往するのですが、次第に「ライダー同士の戦いをどうやったら止められるか」という目的を持つようになります。巻き込まれ型の主人公がヒロイズムを獲得した瞬間です。
上では身代わりネタをいろいろ紹介してみましたが、身代わりそのものは本質ではないのでしょう。白倉のヒーロー論ではヒーローは生まれながらのヒーローであって、超常的なパワーを持つために代替が効かず、むしろそのようなキャラクターがいかに社会と関わっていくかというのが主な問題意識であるように思えます。一方、小林の作品ではもともとパワーを持っているのではなく、成長とともに超能力を手にし、ヒーローに成長していく姿が描かれます。成長前の一般人をヒーローとなりうる舞台に引っ張り出すための設定としての「身代わり」ではないかと思います。
シンケンジャーでも、本来の志葉家の血筋ではない身代わりだったシンケンレッドが正式に当主の座を引き継ぎ、最後の戦いに挑むという、まさにこの設定を体現するような物語となりました。
まとまらないですが、以下は余談。
ここまで白倉伸一郎と小林靖子という二人を例として、対照的なヒーロー観を紹介しましたが、『仮面ライダー電王』については言及を避けました。というのは、電王はプロデューサー白倉伸一郎、メインライター小林靖子なので、上の文章とは整合性が悪い。実際、電王となる主人公は「特異点」と呼ばれる特殊な存在であり、超常的なパワーを持つが常識のないイマジンたちが人間たちと関わっていく過程が描かれたり、別な特異点が最後の敵となる展開はいかにも白倉的なヒーロー像です。しかし一方で、当初はまるでヒーローらしくない主人公が次第に目的に目覚めていく過程は小林らしい展開かもなあなどと思ったりもします。この辺、自分もあまり消化できていませんが、まあ要するに世の中そう単純に二つに切り分けることはできないということです。
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		<link>http://www.jmuk.org/diary/index.php/2010/02/02/substitute-heroes/</link>
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		<title>鹿野司『サはサイエンスのサ』</title>
		<description><![CDATA[
鹿野司さんという科学ライターがいる。代表作はやっぱり、『オールザットウルトラ科学』！　ログインで毎号2ページの科学コラムは多くの少年を科学の道にいざなった(とおもう)。その鹿野さんが95年から15年もS-Fマガジン誌上で連載している(現在も継続中)連載コラムが「サはサイエンスのサ」で、本書はそれの一部からまとめたもの。『巨大ロボット誕生』から12年ぶりの単著となる。
一部をまとめたといっても、単に再録しているだけの本じゃなくて、ものすごくあれこれ手が入っている。たとえば、15年も前のエッセイなんか古びちゃってるかもだけど、データは新しいものに差し替えられていたりする。また、「カラダを変えるサイエンス」という生命科学ネタの章、「ココロを変えるサイエンス」として宗教や精神ネタの章、「セカイを変えるサイエンス」として人間の認知や社会の話、「ミライを変えるサイエンス」としてITと環境ネタ、という4つの章にわけられていて、毎号いろんなトピックだったものをこれらの章に改めて再配置。その上で、わりと独立してたエッセイをうまくつなげて、各回の境界をさほど意識しないように書き直している。連載を読んでいたという人も再読する価値のある本だ。
鹿野さんは科学ライターとしてユニークだと思う。ユニークさの第一はその軽い文体だ。飄々としてフマジメにすら見える文体は科学エッセイとしては珍しい。だいたい科学エッセイなるものは、だである調でお固く解説しがちなものなんだけど、鹿野さんだけ「なのねん」とかいう語尾で軽々と説明していく。妙に固いところがなく、でもわかりやすい。
第二は、独自の「俺理論」をわりと駆使しがちなところだ。科学ライターとしても、できるだけ正確に学者の言っていることをそのまま書き写したいタイプと、自分で咀嚼して紹介するタイプがいるが鹿野さんは断然後者だ。こういうタイプは、理解が浅いと悲惨な事になるのだが、鹿野さんはその俺理論も結構楽しく読めてしまうし、咀嚼しきってしまうから、「◯◯の研究のすごいところは、××なところだ」とか断言をわりとしてしまう。その断言に、なるほどと思わせるところやはっとさせられるところがある。
本当のことを言うと、鹿野さんの俺理論のなかには個人的には首肯しかねるところもある。本書を読んでいても、実はちょっとつらいところもあるにはあった。専門家にとっては「それはちょっと違う」とか「言い過ぎ……」みたいに感じるところもそれぞれあるんじゃないだろうか。ただ、全体としてはやっぱりとても面白いし、それに含蓄もある。広く読まれるべき軽妙なエッセイだと思っている。
おすすめです。
サはサイエンスのサ
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		<link>http://www.jmuk.org/diary/index.php/2010/01/31/s-is-for-sience/</link>
			</item>
	<item>
		<title>かいじゅうたちのいるところ</title>
		<description><![CDATA[かいじゅうたちのいるところ
なかなかいい映画でした。もとは絵本ですが、完全に大人向けのストーリーになっています。そのわりに寓意がわかりやすすぎるのはちょっとどうかと思ったんですが、まあ。
一方、映像はとてもいいですね。森の風景や砂丘といった風景もいいし、なによりかいじゅうたちがいい。着ぐるみなんですが、これが実に着ぐるみ感にあふれたちょっと可愛らしい質感で、とてもよかった。その割に体当たりすぎる演技なのも見どころで、砂丘では転がっていくわ、かいじゅう踊りでは島中を走りまわるわ、溝にはまるわで「中の人スゲーな」とつくづく思いました。いや、中の人などいません。
ところで映画を見終わった後に原作(未読)も読んでみましたけど、ぜんぜん違う話なんですね。物語の構成が全く違っていて、映画はかいじゅう踊りは物語のはじまりの合図ですが、絵本ではそこはクライマックスなんですよね。だから、上でわかりやすすぎると書いた寓意は映画オリジナル。
ところが、それぐらいはむしろ瑣末なもので、根本的に違うのは主人公、マックスの性格付けではないかと思います。絵本のマックスはしかめ面でやんちゃな男の子といった感じですが、映画のマックスは空想癖があって一人で遊ぶのが好きな、か弱い子になっています。この違いは重要で、かいじゅうたちの王様になる過程も、家に戻る理由も、かなりの部分が変化しています。しかし、何を考えてるかはよくわからない(というか曖昧なので読者に想像の余地を与える)絵本とちがって、空想にふけりがちで聞き分けのないマックスはこれはこれで感情移入しやすく、これは二時間の映画としては正しい選択ではないかと思いました。なにより演じているマックス・レコーズがよく、繊細そうなマックスを好演していたと思います。
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		<link>http://www.jmuk.org/diary/index.php/2010/01/26/where-wild-things-are/</link>
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	<item>
		<title>柴野さんのこと</title>
		<description><![CDATA[柴野拓美さんが亡くなったらしい。
わたしはこの世代のSFファンとしては珍しく、柴野さんにお会いし、話したことがある。日本SFファングループ連合会議に関連して柴野さんのお宅に訪問する必要が生じたとき、いっしょについて行ったわけである。
その時の思い出は二つある。
ひとつは、柴野さんより訳書である『スリランカから世界を眺めて』を頂いたことである。本棚見学をしていて余っていたので一冊いただいたわけだ。この本はサンリオSF文庫で出たあとでハヤカワ文庫NFとして出直された。私はハヤカワ版を頂いた。サンリオ版とハヤカワ版、どちらが欲しいか訊ねられ、「さ、サンリオ版を……」と言いかけたところ、ハヤカワ版の方が訳を直したからいいのだが、とおっしゃったので、ハヤカワ版の方を頂いたのである。もちろん、サインももらった。
もうひとつは、ちょっとした雑談のときの思い出である。柴野さんといえば、いつもにこにこと笑っておられる温厚なおじいさんという印象を当時のわたしはもっていた。実際そういう人物だった。しかし、柴野さんを知る人からの証言から判るように、柴野さんは妥協を許さない人でもあった。SFかくあるべし、という理念があり、いいものはいいといい、悪いと思ったものはすぐに指弾する人だったという。
で、雑談。話は当時のSFマガジンの、とある連載の話になった(柴野さんの人柄を伝えるのが目的であり、批判を残すことが目的ではないので、具体的な話はここでは避ける)。どう思う、と普通に感想を聞いてこられたのだが、困ったことに個人的にはあまり面白いとは思っていなかった。柴野さんがどういう思いなのかわからなかったので、わたしはごく無難に「いや個人的にはあれはちょっと……」といった言葉の濁し方をした。すると柴野さんは我が意を得たりといった表情で「そうでしょう」といい、それから的確だがなかなか厳しい指摘をされた。こちらの方がむしろびっくりしてしまい、どう反応していいのかわからず困ってしまったぐらいだ。
正直に言うと、柴野さんのお宅を訪ねるという目的についても、下世話ないい方をすれば隠居した長老への挨拶といった意味合いで考えていた。けれど、びっくりすると同時にわかったのは、このじいさんは楽隠居の長老などではぜんぜんない、その当時でもSFマガジンを普通に読み、SFファンにあえば感想を語りあって、好きでない作品があれば遠慮なく批判を展開する、まったく現役のSF読者だったということである。あの年でこれは、すごいなとも思ったし、こう老いたいものだとも思ったものだ。
謹んで哀悼の意を捧げる。
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		<link>http://www.jmuk.org/diary/index.php/2010/01/17/shibano/</link>
			</item>
	<item>
		<title>S-Fマガジン2010年2月号</title>
		<description><![CDATA[
S-Fマガジン 2010年 02月号は創刊50周年記念特大号パート2、国内作家編。
飛浩隆　零號琴
新連載。第1話としては非常にソツがなく、後がたのしみ。+2
山田正紀　フェイス・ゼロ
これはちょっと今ひとつ。主人公の特殊能力がそうだとなぜそうなるのかというところがきちんと説明されておらず、なんとなく読者に意外性を印象づけさせようと頑張ったのみに留まっている印象。-1
椎名誠　問題食堂
暴力的でコミカルな掌編。いきなり遠未来になったところからはノレなかったが、冒頭のいさかいからいきなり暴力沙汰に発展するくだりが楽しい。0
瀬名秀明　ロボ
ちょっとこれはいかんでしょう。当人の意図はさておき、どう読んでもここでいう「自然史家」には作者自身の像を重ねあわせているようにしか読めない。そして自身をこう描いてしまうということに気持ち悪さを感じてしまう。語られているテーマは興味深く読んだのだが。-1
上田早夕里　マグネフィオ
認識・脳をテーマとしたSF。主人公自身も脳に障害を負って自分の好きな女性の顔も認識出来ないという設定や修介との会話のようにビターな味わいが上手い。+2
吾妻ひでお　僕と彼女の微妙な関係
うーん。全然新しくはないけど、この人はこのまんまでいいのかもしれない。+1
谷甲州　ザナドゥ高地
久々の航空宇宙軍史もの。相変わらず渋いがディティールを楽しむべきか。正直、そこまで読み込めなかったが、谷甲州はこの程度の内容でも読ませてしまうなと思った。+1
牧野修　小指の想い出
牧野らしいグロテスクさと上質なエンターテイメントの見事な融合。老人だけが入れる無法地帯、(ボケてるので)記憶を失った主人公とくれば面白くないわけがない。+3
とり・みき　SF小僧の花嫁
これどうなんだ。1年後に読んでもわかるのかこれ。直近のネタを拾いすぎでは。-1
水玉螢之丞　SFまで100000光年スペシャル
まあいつもどおりの楽しさですよ。+1
神林長平　確かな自己、固定・変換・開放
ちょっと小説としての体をなしていない。シノプシスを読んでいるような気分になる。シリーズとしては前の話も大して覚えていないから読み進めづらかったし、大して面白い話でもない気がする。-1
林譲治　古の軛
AADDもの。シリーズ番外編？　オチというか落とし所は「まあそんなところかなー」という感じがする。しかし、ストリンガーの設定は今ひとつ納得感がないというか、緻密に構成されているというよりその場その場で作者が設定を都合よく解釈しているような不安が残る。俺の読解力がたりないのだろうか。+1
梶尾真治　減速の蹉跌
これもちょっとシノプシス的。もうちょっと掘り下げるところを掘り下げればあざとく泣かせられたのではないか。惜しい感じがした。0
新城カズマ　議論の余地はございましょうが
これはひどい。ここ10年で読んできたSFマガジンに掲載された文章の中でも最悪。すぐに古びそうなことをだらだらと開陳するだけの駄文であり、その上演説をしているだけで小説の体をなしていない。読んでいて怒りがこみ上げてきた。-3
北野勇作　路面電車で行く王宮と温泉の旅一泊二日
これは北野勇作のここ最近のSF短編で最大の収穫じゃないだろうか。「路面電車」のような馴染みのある単語と異形な怪物と組み合わせることで喚起されるイメージが素晴らしい。+2
小林泰三　囚人の両刀論法
小説としてはいかがなものかという構成ではある。対話だけになっちゃっている。囚人のジレンマを題材にしたSF(そんなのが他にどれだけあるかはわからないが)としては、しかしなかなか面白い。「意外な結末」もよかった。0
田中啓文　カッパの王
途中まではなかなかいいじゃん、とか思っていたが最後の一行で脱力した。そう来ますか。そうですか……。0
横山えいじ　おまかせ！レスキュースペシャル
なんだか懐古調。スペシャルだからだろうけど。0
冲方丁　メトセラとプラスチックと太陽の臓器
これは面白い。数年前に書かれたエッセイの採録という体裁で描かれるデザイナーベイビーの世界。最初の作者注でうまくネタを割っているやり方が巧みだ。+3
小川一水　アリスマ王の愛した魔物
数学ネタSF。あるいはコンピュータの万能さについて。ぶっちゃけ計算よりはデータソースのほうが重要ですよね、って読んでいて思うがそれは野暮というものか。+2
円城塔　エデン逆行
これは面白い。細部はよくわからないがひさびさにヒット。あまり韜晦していない感じに読めたが、まあ実際のところはよくわからない。+2
coco　SFマガジンの早川さん・スペシャル
いつもどおり。ドラマCDはたのしみです。+1
山本弘　地球から来た男
ちょっと感心した。そうか、政治的なテーマをこう描くかと。「まったく身体改造が行われていない人間が、身体改造を必要とする場所に密航する」という設定で未来社会をうまく描きながら、正しく政治的。山本弘は、自分の主張を小説で書くときは主人公に直に言わせるというストレートな方法をよく取っていた気がするが、この話は小説の構造自体にうまく織り込んでいる。+3
森岡浩之　気まぐれな宇宙にて
単純に面白かった。カイパーベルトにワームホールが見つかるという設定はありがちだが、「次にどこに飛ぶかは誰にもわからない」という設定を導入することで物語に意外なふくらみが出ている。ありそうでなかった感じがする。シリーズ化して続けて欲しい。+1
菅浩江　夢
イディオ・サヴァン的な人たちを集めてSETIデータの解析をする、というシチュエーションを、当のイディオ・サヴァンの立場から描く。50周年スペシャル的な雰囲気が残念ながら少し鼻につく感じがするが、面白くはある。+1
野尻抱介　コンビニエンスなピアピア動画
もう野尻先生は遠いところに行ってしまったなという感じ。これはまあ正しくプロパガンダ小説とみなすべきなのだろう。ニコ動(技術部)に未来を見てしまった人のプロパガンダ。読むと案外面白いのだが、プロパガンダとしては説得力というか誘引力に欠けるのが難点。ソレが好きな人にとっては大傑作なのかもと思う。0
西島大介
雰囲気のみのイラストだがキマってる。+1

ここまでの幅広い作家を揃えられる媒体は存在しないという意味で、この号は00年代の日本SFのショウケースとして、後々までも親しまれることになるだろう。特に森岡浩之のように次いつ載るかわからないレベルの作家がかなり多い。2500円とかなりの値段ではあるけど、ぜひご家庭に一冊取り揃えておきたい。
もっとも作品の質は意外とばらばら、というか個人的には気に入らないものもけっこうある。それに関連するが、ちょっと食い足りないというか、梗概のような作品がわりと多い。多くの作家を収めたい関係上、枚数指定が厳しかったのかなと邪推している。
内容については、50周年ということでそういうテーマの小説もあるのかなと思っていたが、意外なほどみんな無頓着だったようだ。菅浩江が律儀にそこを取り入れているぐらいか……。まぁ、これはそういうものかもしれない。ただ逆に、「今」を取り入れすぎて失敗しているようなものが多いのではと感じた。最新のテーマを取り込むのが悪いことだとは思わないが、せめて1年後にも古びていない強度をもって書いて欲しいものだと思う。
ちなみに、先日出たNOVA 1とはわりと著者がかぶっている。それはそういうものだから仕方ないが、両方に掲載した著者の作品をあえて比較をすると、個人的な好みはSFM掲載作の方が近い。北野勇作、山本弘、円城塔はSFMの方が好み、小林泰三と田中啓文は比較不能だが強いていうならSFMの方が好みかもというぐらい、飛浩隆もSFMの方が面白いような気がするけど、こちらは連載なのでまだなんともという感じ。牧野修は互角。でも牧野を読んだことがない人に先に勧められるのはSFMの方だろう。
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		<title>麻生みこと『そこをなんとか』</title>
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あんまり前知識なしに表紙買いしたんですが、これがなかなか面白いまんがでした。現在3巻まで刊行中。
卒業したばかりの新米弁護士、改世楽子(かいせ・らくこ)は未曾有の就職難に遭遇。司法試験新制度の結果として多量の新米弁護士が生み出されていたのだ！　それでも持ち前の楽観とパワーで、とある零細弁護士事務所に所属することに。デキるアニ弁(先輩弁護士)の東海林弘明と、元大学教員の所長のもと、改世は難事件(?)を次々に(?)解決(?)していく。
てな粗筋ですが、この話のポイントは主人公のらっこちゃんの性格かなと思いました。この人、実に「イイ性格」をしておりまして、ある面ではごく真っ当でありながら、妙に高いテンションで突っ走ったりして、読んでいて気持ちがいい。話の関係上、離婚調停や外国人の子供の認知のようなともすれば重くなりがちなテーマを扱われることも多いのですが、むしろくすくす笑えるぐらいの雰囲気に仕上がっているのもこのキャラあってこそ。ってか、俺は基本的にこういうのにありがちな「キャラとハートがおおまかカバー」なだけの話は嫌いなんですが、このまんがのいいところはそれだけにはなってないというところかもしれません。2巻の裁判員制度シミュレーションなんか、誰も気付かなかった真理(とおぼしきもの)をズバリついてますからね。それでいてこういうキャラだからこそ楽しい作品になっているのでしょう。3巻からは主人公の同期の赤星君を絡めた微妙なラヴ要素も加わって、楽しくなってきました。しかし赤星くんは不憫すぎてむしろ泣けてきます……。
ところで、読書メーターを見てる感じでは、らっこちゃんのキャラを褒める層と、東海林のメガネ男子ブリに魅了される層に大別されてる感じです。前者が男で後者が女ではないかと勝手に思ってるんですが、だとするとなんとわかりやすいというかなんというか(まあ俺もだが)。
そこをなんとか 1巻 2巻 3巻
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