斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』

This entry was posted by on Wednesday, 22 December, 2010

偽書「東日流外三郡誌」事件

いやあ面白かった、面白かった。こんな本が出ているなんて知らず(2006年に刊行、2009年に文庫化)、たまたま本屋で見かけて手にとった本なのですが、手にとってよかった。「東日流外三郡誌」の読み方が分かっている人には必読ですよ。こんな感想など読まずに買うべし。

「東日流外三郡誌」(つがるそとさんぐんし、と読む)は東北地方の隠された歴史を記述した古文書、という触れ込みで出回った偽書で、実際には「発見者」である和田喜三郎なる人物が書いたとされている。聞いたこともないという人でも、おそらくその影響下にあるフィクションに触れたこともあるかもしれない。たとえば女神転生シリーズなんかでアラハバキが遮光器土偶のかたちをしてるのもこれ由来(だとおもう)。

と学会系の本で紹介されていたので存在は知っていたのだけど、内容は断片的にしか知らないし、偽書だとされてる理由としても、内容があまりに荒唐無稽で、書かれている内容に時代的な矛盾があるから、という程度の知識があったぐらい。実は92年に起こった民事訴訟をきっかけに、この『外三郡誌』をはじめとして和田氏が次々と「発見」した「和田家文書」なるものの真贋騒動があったらしいのだが、この本は、その民事訴訟の初期から真贋騒動をずっと追っかけた記者による記録だ。

これがまあめっぽう面白い。出てくる証拠出てくる証拠、ひとつひとつが胡散臭く、それでいて東北各所でいろんな人がこの和田という人に騙されたことが次第に明らかになっていく。村史として出版してしまった村、和田から送られてきた偽物の御神体の「帰還」を祝ってしまった人たち……。一つ一つの事象を著者は取り上げ、検討していく。著者の姿勢は、個人的にはどちらかというと優柔不断すぎるというか、両論併記過ぎるというか、「それどう見てもアウトだろ」という場合でも決して断定は下さないのだが、調べれば調べるほど偽書である傍証が積み上がっていくという次第。

偽書であると断ずる人たちの調査やあまりにも明快すぎるツッコミも愉快で、読むと苦笑する。紙に煤をつけて古文書っぽく見せるとかはさておき、特徴的な癖字や特徴的な誤字から明らかに発見者が著者だとわかるというのが繰り返し登場する基本的な論拠なのだが、しかも筆跡を詳細に調査したところ、著者が用いたのは筆ペンなのだという。筆ペンて。せめて毛筆使っとけよ。

民事訴訟もふるっている。九州の郷土史家が、『外三郡誌』を受けて和田氏に問い合わせたところ、自分が送った写真と歴史記述が勝手に『外三郡誌』に組み込まれて発表されていたという話。写真はともかく、古文書であるはずの『外三郡誌』になぜ、自分の研究成果が盗用されうるのか?といえば、それはもちろん『外三郡誌』が発見者の手による偽書にほかならないからだというわけ。なんともヘンテコな裁判で、第三者としては苦笑を禁じ得ない。というかめちゃくちゃである。

そういうわけで笑える本ではあるのだが、なかなか難しいテーマも潜んでいる。なぜ、研究者たちはこの文書の蔓延を阻止できなかったのだろうか。『外三郡誌』を「取り上げるに値しない」と話す研究者の発言を受けて、著者は次のように書く。

だが、彼の言葉はストンと胸には下りてこなかった。なぜなら、警察官が犯罪を予防するように、研究者には学問上のトラブルを未然に防ぐ使命があるのではないか、ことに国民の税金で運営されている公的機関の研究者は、とかねてから考えていたからである。

正論だろう。菊池さんのニセ科学に対する取り組みもわたしは連想した。だが、こういう「ありえない」「論外」なシロモノは世の中にはいっぱいあるわけで、研究者はそんなことに関わっていられないという事情もある。そんなものが広い支持を集めるなんて想像もできなかったとも言える気がする。けっきょく、こうしたものは「一笑に付す」以外に取り組みようもないのかもしれない。そして実際に広まってしまってから、対症療法的に何とかしていくしかないのかもしれない。警官だってべつに、たとえば犯罪を予防するために市民を監視しているわけじゃないし……。

研究者としてやるべきなのはむしろ、一般人がこういうモノに引っかからないようにするにはどうしたら良いか、という教育であったり啓蒙活動であったりするのかもしれないが、それも難しいなあと思う。

もうひとつ興味深いのは、こうした「イカガワシイもの」をフィクションがどう扱うべきかということ。「文庫版あとがき」では、『外三郡誌』を下敷きにしたフィクションを紹介した上で、次の言葉を引用している。

表現の自由がある。ましてや、こうした作家たちは「この物語はフィクションです」と断った上で文章を掲載し、文化、経済活動の一環として本を刊行している。何一つ問題はない。だが、齋藤氏(引用者注: 本編中にもなんども登場する郷土史家)はどうしても引っかかるのだ、と言う。
「彼ら(作家たち)の考えは、どんな”うその資料”を使っていても、面白ければいいということなのです。でも、”『外三郡誌』は偽書だ”と言いながら、それでも小説の種にしたいがために”あの膨大なすべてがうそとは思えない”と言って、自分の都合のいいところだけを正当化する。そういった姿勢はどうなのでしょうか。(後略)」

うーむ。どうなのでしょう。私は、あからさまにいかがわしい資料を元にしていても、面白ければフィクションとしてはそれはそれでありだし、十分だと思う。フィクションは所詮フィクションでしかない。作家が本気でこの偽書を信じこんでしまって、それで書いた歴史小説は問題ないのだろうか。和田氏がはじめから古文書ではなく、歴史小説として発表していたらどうだったろう。だが、ともあれ、たとえば司馬遼太郎が書いたものが容易に史実と混同しうる、みたいな状況はあるわけで、フィクションだからというのも免罪符にはならないだろう。歴史小説、ことに古代史のフィクションに特有の難しさというのもあるのかも。

偽書は偽書、あからさまな真贋についてだけ知りたいなら、こんな本を読む必要などない。だが偽書騒動のありよう、そんなものに振り回された人々、なぜこんなものがまかり通ったのかという疑問、そういったものに興味がある人にはおすすめ。

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