Archive for June, 2010

S-Fマガジン2010年8月号

Posted by on Sunday, 27 June, 2010

浅倉久志追悼号。

浅倉さんの訳した作品5編(キース・ロバーツ「信号手」、R・A・ラファティ「田園の女王」、リチャード・グラント「ドローテの方程式」、ロジャー・ゼラズニイ「このあらしの瞬間」、ジェローム・K・ジェローム「自転車の修繕」)の収録に加え、伊藤典夫、森優、鏡明、高橋良平の追悼エッセイ、大森望、中村融、山岸真による追悼エッセイ+収録作品解説、そして浅倉久志翻訳作品リストまでついている。浅倉さんは生前、自分で自分の仕事をノートにつけて記録していたらしく、おそらくそれがベースになっているのであろう翻訳作品リストは「浅倉久志・編」のクレジットになっている。

しかし、読んで考え込んでしまう特集でもあった。翻訳家の仕事とその役割について。

浅倉さんの翻訳がうまいと誰もが言う。そこに何ら異論はない。実際、読んでいても実に自然に読める。でも少なくとも僕は、よくわからない。翻訳がうまいということについて、原文もない状態で、自然に読める文章を手にしていて、それが凄いことだということがどうも頭に入ってこない。作品自身の面白さを越えた浅倉さん自身の手腕のようなものは感じづらい。

もちろん、翻訳作品のなかには技工を凝らした訳業というのもある。もとの作品に仕掛けられた技工を日本語に翻訳するにあたってこうした、という仕掛けもあろう。極端な例を挙げれば、「eを全く使わずに書かれたvoidという作品」を「イ段を使わずに訳した」『煙滅』という作品のように。そういう訳業もそれはそれで素晴らしいが、浅倉さんの翻訳家としての方向性そのようなものではなく、できるだけ翻訳家の姿が消えるような自然な翻訳が理想だったと伺っているし、少なくともここで選ばれた作品は、一読してわかるような大げさな仕掛けで読者を驚かせるような作品選択にはなっていない。浅倉さんにそんなものは不要なのだ、ということなのかもと思う。だがそれだけにその訳業の凄さというのは伝わりづらい。

ヘタな翻訳というのは一読して分かるが、うまい翻訳というのはその「ヘタな翻訳の少なさ」としてしか読者の目には見えてこない、ということああのかもしれない。改めて読み返せば、原文がどうであったのかすらわからない自然な日本語となっているところなど本当にすごいことだと思えるのだが。おそらく翻訳の経験があればあるほどこの凄さというのはわかってくるものなのだろう。

そんなことを考えさせられた特集だった。

S-Fマガジン 2010年 08月号 [雑誌]


ヴィクトル・ペレーヴィン『宇宙飛行士オモン・ラー』

Posted by on Sunday, 27 June, 2010

うすよごれた地上の現実がいやになったら宇宙に飛び出そう!

子供の頃から月にあこがれて宇宙飛行士になったソ連の若者オモンに下された命令は、帰ることのできない月への特攻飛行!

アメリカのアポロが着陸したのが月の表なら、ソ連のオモンは月の裏側を目指す。宇宙開発の競争なんてどうせ人間の妄想の産物にすぎないのさ!? だからロケットで月に行った英雄はいまも必死に自転車をこぎつづけてる!

ロシアのベストセラー作家ペレーヴィンが描く地上のスペース・ファンタジー。

ペレーヴィンの作品はどれもそうだから、本作にも寓意が込められていると思う。だがその寓意を真剣に読み取る必要は、この本の場合そんなに必要ない。宇宙飛行士が必死になって無人機のはずの自転車をこぐというシュールな光景だけでそうとうおかしい。そこがいい。

そのシュールな光景をいろどり、補強するディティールがいい。ロケットの一段目を担当する宇宙飛行士の話とか。ピンク・フロイドの音楽についてひとしきり盛り上がるところとか。宇宙飛行士訓練学校の教官の妙に理不尽なところとか。ソ連の理不尽な命令、というのは一種の定番ギャグと化しているが、それをきっちりとなぞっている。

ある一行が火星に向かって飛んでいたんだ。丸窓から向こうをのぞくと、ようやくそばまで来たことがわかった。そしてふと振り返ると、全身赤ずくめの小柄な男が厚刃のナイフ片手に立っていて一言、「どうされました、ソヴィエトから出るおつもりですか?」

エピソードはユーモラスで、全体は乾いた笑いで覆われている。ところが主人公も含めて全員が全員、いやに生真面目なのだからよけいおかしい。

本作には印象的な単語やモチーフが繰り返し登場したり、わかりやすい寓意のヒントみたいなものが込められている。深読みするならそういうところをつつくことで深読みもできると思うけど、今の段階ではわたしはそこまで到達していない。そういったことは解説にも書かれているから、そちらでいいのでは、という気がする。

ペレーヴィンの作品でいうと僕は『恐怖の兜』が好きで、あれもシュールな笑いに包まれた作品だった。『チャパーエフと空虚』はちょっとピンと来なかった。チャパーエフという歴史上の人物をよく知らないという問題もあるにせよ、おそらくたぶん、そういう笑いとは無縁の物語だったからだろう(『虫の生活』と『眠れ』は未読)。というわけなので、自分が作者の意図した読み方をしてるのかはよくわからないというか、たぶん思いきり外している。でもやっぱり、このユーモア感覚はやはり好きだな。

たぶんモンティ・パイソンとかが好きな人は好きだと思います。

宇宙飛行士オモン・ラー (群像社ライブラリー)


アイアンマン2

Posted by on Monday, 21 June, 2010

公式サイト

先週見てきました。いやー素晴らしかった。

知人を中心に「前作と比べると……」的な感想をよく見かけたのですが、全然そんなことはなかった。むしろ前作より上かも、とすら思いました。基本的にこの映画は素敵なガジェットとイカしたCGを楽しむものなので、正直なところストーリーというのはどうでもいいと思うのですね。

前作はテロリズムに加担していた自分を反省する的な展開だったのが、今作はアメリカ国防の話になって、政治色は強まってる気もしますが、その辺の展開は序盤で済ませてしまい、あっという間にストーリーはトニー・スタークの個人的な事情に焦点をあわせてしまいます。そんなわけで、ストーリー的にはいーかげんというかそれ何も解決してないんじゃ……という気もするのですが、それを気にしない迫力のCGが楽しめました。

トレイラーにも出てきたスーツケース型パワードスーツもカッコよかったし、ミッキー・ローク演じる今回のヴィランもなかなか良かった。ラストのドッグファイトはちょっとタルかったですが、変な必殺技が炸裂したりしてたし、満足、満足。それにしてもお金かかってるなーとつくづく感じました。

マーベルのクロスオーバーは着実に進んでいて、途中にキャプテン・アメリカのアレがちらっと登場したり、例によってエンディングの後におまけ映像があったんですが、たしかにこれは初見でわかった日本人が何人いるのか疑問かも。かといって変に補足するのも変だしなあ。痛し痒しですね。

そういえば今回のアイアンマン2はオラクルが全面サポートしていますが、劇中冒頭にちょっとだけ「やあラリー」といって、ラリー・エリクソンが登場してました。たぶん本物だと思う。すごいなあ。しかしオラクルのユーザ(というかオラクル導入の決定権を持つ人たち)に訴求するんだろうか、このキャンペーンは……。

ところで、今回合わせで出ていた『アイ・アム・アイアンマン』も読みました。基本的に映画の第1作目のストーリーを忠実になぞったコミック化で、まあ普通。イラストは精細でかなり映画に忠実ですが、映画の素晴らしさはガジェットのビジュアルだけでなく、あれがこうゴチャゴチャ動いてくれるところなのでイラスト(コミック)だとちょっと見劣りするな、と思いました。ただ、本書に掲載されているスピンオフ作品はなかなかの掘り出し物。映画1作目ではエンディングの後になんか眼帯のオッサンがいきなり現れて視聴者を面食らわせますが、あのオッサンが1作目の他のシーンの裏でいかにトニー・スタークを監視し、どういうことを考えてたかを描いた作品で、映画原作のスピンオフとしては非常に正しい出来栄え。ちょいお薦め。


はやぶさは何が素晴らしいのか

Posted by on Monday, 14 June, 2010

7年間の長い旅程を終え、はやぶさは無事地球に帰ってきた。大気圏突入によって燃え尽き、カプセルの射出も成功、とりあえず予定とされている分は全て完遂したわけだ。カプセルの回収も出来ていて、そちらはまだまだということになるが、ひとまず安心したし、プロジェクトを完遂したJAXAのチームはほんとうに凄いと思う。

でも、正直に言わせてもらうと、ネットでの盛り上がりを眺めていて、引いた。泣いちゃうとかね、これはどうなんだろう、と思いました。

はやぶさのプロジェクト自体はとても野心的だったし、完遂したことそれ自体は敬服に値するとてもすごいことだと思う。特にイトカワ近辺で通信が途絶してから復帰するまでの帰還というのは、精神的にも相当しんどいことは容易に予想がつく(というか俺だったらそんなのやりたくないなーと思ってしまう)。でも、どうも、宇宙機を擬人化してそういう反応をすることに自分は相当な警戒感があるのかな、と思った。

ちょっと考えてみて欲しいんだけど、はやぶさにもし何の支障も発生せず、普通にイトカワに到着し、淡々とミッションを遂行し、予定通りに帰ってきたらどうだろう。これほど盛り上がっただろうか。みんなここまで感動しただろうか。おれは、そうはならなかったろうと思う。満身創痍の宇宙機を擬人化して、それを哀れに思い、健気に感じたからこその盛り上がりなのではないかという気がする。でもそれって正しいこと? 予定通り完璧にミッションをこなしたのなら、今のはやぶさよりもっとずっと褒めたたえられるのが正しいはずだ。どうもそこには、極端な表現をするならば、一種の理不尽さがある。

誰かがこれはデスマーチなプロジェクトといっしょだと言った(おごちゃんも書いていた)。その通りだと思う。デスマーチの頑張りを称えるのはナンセンスだと思う。もちろん、デスマーチだから駄目だというのもナンセンスだろう。結果がどうだったかが重要ではないかと思っている。

この種の盛り上がりを警戒する理由は二つある。

一つは、こういう感情的な盛り上がりは容易に加熱して、欠点を覆い尽くしてしまうからだ。言うまでもなく、はやぶさには課題がある。当初の目的の達成度は満点ではない。特にイトカワ近傍でのマニューバはけっこう失敗が多かったと記憶している。はやぶさ2が計画されるのはそのためだと思う。こういう運用の知見というのは、放置すると失われてしまうものだからだ。

あと人間は飽きっぽいので、感情的な盛り上がりはわりとすぐに冷める。何人の人間が一年後まではやぶさのことを覚えているだろうか、とちょっと気になる。

第二の理由は、擬人化することの弊害だ。たとえば、はやぶさ2が実際にスタートして、やはり似たような状況により通信が途絶したとする。しかし今回は諦める方が得策という状況はわりとありうる。たとえば帰還のための運用ノウハウはもうあるから、とかね。でも、擬人化して感情的に盛り上がることで合理的な選択が取れなくなるかもしれない。

科学的なプロジェクトは合理的に選択するべきだし、遂行するべきだと思う。はやぶさにしても、意外と早く通信が回復したのでなんとかなったが、この時期までにこの段階に到達していなければ無理という物理的なデッドラインはあったはずだ。でも感情はそういう論理を覆ってしまう。

まぁ、そうは言っても「俺もマーカーに名前が入れてもらうぐらいには当初からはやぶさを応援してたのに」という気持ちがないかというと、実際ある。というか、今が最高潮すか、みたいなのが近いかな。イトカワ近傍での様々なマニューバとその結果をニュースで見ながら一喜一憂したり、通信が回復した時の感動と比べると、今はまあ帰ってくるべきものが帰ってきたので、「いやあよかったですね、おめでとうございます」という感じである。油断ならない状態からほっと一息、というのが近いか。だからそこまで感動している人たちのことはよくわからないのかも。

ただ、無理くりに引きずりだした論点だとしても、ちょっと面白い点は突いていると思う。あなたは、はやぶさの帰還に感動しただろうか。だとすると、それはどの点だろう。はやぶさが満身創痍で、プロジェクトが失敗の危機に瀕しながら完遂したからだろうか。だとすると、それは違うんじゃないだろうか。


上海に行ってきた

Posted by on Sunday, 6 June, 2010

仕事の関係で上海に出張、せっかくなので数日の休暇をとって観光してきました。以下その覚え書き(いや実はネットにつなぐのがいろいろ大変だったので、暇な時間でローカルに書きためていたのです)。

ネットの接続
今回、はじめて中国に行きました。確かにtwitterに繋がらない。facebookもだめ。YouTubeも無理。bloggerもだめなので、読めないサイトもある。ちなみにGoogle Readerに登録していた場合も、そのサイトのフィードを読もうとするとエラーが発生して読めなくなります。flickrやpicasawebも無理。

一方、意外と繋がるサイトもあって、たとえばmixi。あとはてなも読めました。fc2ですら禁止されているのにこの辺はオーケーとは……。中国における認知度は低いということでしょうか。あ、あとGmailが大丈夫な関係上、バズは問題なしで、わたしも滞在中、ちょっとバズ上でつぶやいたりしていました。twitterはいろいろ抜け穴があるようですが、面倒だったのでそこまでしてつないだりはせず。

信号無視
まあよく聞く話だし驚きはないかもしれないけど、信号無視はすごいね。青信号で渡っていても全く何の油断もできない。一方、赤だろうがなんだろうが、集団で渡れば車の方もきちんと認知してくれるから安全だと思う。「みんなで渡れば怖くない」というやつですな。

信号無視が怖いのは、もちろん車もあるが、それ以上に自転車やバイク(原付)が多いからというのもありそう。車と同じぐらいアグレッシブに攻めてくるし、歩道を走るのもよくあることなのでまったく油断できない。それと案外多いのが電動バイク。電動はスピードこそ若干遅いもののすごく静かなのでとっても危険。歩道をのんびり歩いていると唐突に後ろからクラクションがなって、自分の脇を電動バイクがすり抜けていく、なんてのをよく経験した。

ファミマ入店音
上海のあちこちにファミリーマートがある。これとローソンがこちらではメジャーらしい。興味があってちょっと入ってみたけど、売っているもののラインナップは大差ない。ただ、雑誌類は少ない感じ。漫画雑誌は見かけなかった。カップ麺にはシェフの写真入りのものがあって、そういうところの文化は似ているなあと微苦笑した。

ところでファミマの入店時に鳴るアレ。アレのメロディは日本のアレと一緒だったんだけど、なぜかキーが違った。なぜだろう? 昔に導入されたまま更新されてないとかかなあ。

賭けトランプ?
公園をぶらぶらしていたら、おっさんがテーブルを囲んで人だかり。ひょいと覗いてみたらトランプをやっている。めちゃくちゃ真剣だし、机の上にはお金が置いてあったから、あれはきっと賭博だったのだろう。

少しだけプレイを眺めたが、ルールはよくわからなかった。しばらく公園をぐるっと回ってまた同じ所に戻ってきたら人だかりも大きくなっていて、あれは大一番の勝負か何かだったのかなあ。

脇には象棋をやってる人たちもいた。台北とかの方が象棋はさかんな印象があるなぁ。それともどこか別なところでやってて、公園のベンチとかでやったりはしないのかな。

駅の荷物チェック
地下鉄が便利かつ安いのでよく利用したが、どこの駅でも荷物チェックがあるのは閉口した。空港にあるようなやつにカバンだけ通す。実際、そんなに真面目にチェックし、役に立っているのか怪しいもんだと思ったが、どうなんだろう。というか、人によっては普通に無視して脇をすり抜けていたりしたが、あれでいいのか。

混雑したりすると面倒で、できれば俺も素知らぬ顔ですり抜けたかったが、どういう理由でそうしているかわからないまま真似をするのは危険なので毎回ちゃんと通した。

警備といえば、駅によっては警官とおぼしき人が入り口に立って警備していた。あれは万博あわせだったのかなあ。

万博
もちろん、万博に行った。休暇をとったので平日、これなら勝てる!と思ったが、非常に混んでいた。入り口から会場あたりまでは本当に誰もいないぐらいガラガラで、これなら期待が持てそうだと思ったのだが、場内はなんてことないパビリオンでも列ができているぐらいには混んでいた。たぶん、きっと、休日などに行くよりはすいていたのだろうと思う。列も比較的短かったんだろう。でもまあ、大差ねえよなー。

結局、会場の端から端まで歩き、行列を見物した他には、マイナーなパビリオンにいくつか入っただけで退散した。いやはや。

豫園
市内観光ということで豫園(よえん)に行ってきた。中国庭園があるところで、なかなか風情がある。風情はあるのだが、その周辺に土産物屋やら屋台料理やらが立ち並び、異常な混雑を見せていて非常に猥雑な雰囲気になっていて、そこも込みでなかなか楽しかった。なんとなく映画とかで「中国」というとこんな感じ、というイメージができあがってると思うけど、その雰囲気に近いのは上海ではこのあたりだろう。

ストローつき肉まん、あるいはメガ小龍包
その豫園周辺には、小龍包発祥のお店という南翔饅頭店というお店がある。行ってみようと思ったのだがこれが大行列。持ち帰りじゃなくて店内で食べるなら並ばなくても行けるという情報もあったのだけど、そちらにも列があったようで諦めた。後日、上海の別なところにある支店で小龍包を堪能した。ちなみに渋谷や六本木にも支店があるんだとか。ありがたみってものが……。

小龍包については、佳家湯包ってところのがたいへん、たいへん美味しかった。蟹味噌小龍包というのがあってこれが96元もするのだが、とても美味しかった。ここはいい。行く価値あり。96元というのは1200円ぐらいかな。値段はガイドブックと違ってて、値上がりしたようだ。ちなみに普通の小龍包はこの店だと10元とかだったと思う。

閑話休題。で、豫園で南翔饅頭店はあきらめてうろうろしていたのだけど、何か所かで見かけたのが、なんか肉まんにストローが突き刺さっているというインパクト充分な見た目のブツ。きっと中身はスープなのだろう、そのストローですするんだろうな、美味しいんだろうか、熱くないのかな……と気になったので買ってみた。

実際、熱々の上に具入りのスープなため、ストローですすったら簡単に火傷したんだけど、これがけっこう美味しい。製法としては小龍包とほぼいっしょなんじゃないかと思う。いわばメガ小龍包だね(笑)。

写真
中国人はカメラが大好きだ。観光地やらに行くと、記念撮影している人たちがたくさんいる。しかも絵になりそうな背景で絵になりそうなポーズを決めるものだからとても場所をとり、はっきり言えば邪魔である。この辺、デイリーポータルZでネタにされてたような……(これだな)、でも、他の記事でネタにされてたみたいに、日本人も昔はこういった風だったのかもしれない。何か東アジアに共通のメンタリティなのだろうか。日本人の国際的なイメージと言えば、眼鏡、出っ歯、カメラとされてきたが、少なくともカメラについてはいまや中国人の方が遥かに上をいっていると思う。

ところで今回はデジイチを持って独りでふらふら歩いていたからか、そういうところを歩いているとよく(中国語で)話しかけられた。さっぱりわからないけど、写真を撮ってくれということなのだろう、デジカメを差し出してくる。もしかすると「こんな立派なカメラを持っているのなら間違いはない」とか思われているもかもしれない。ぜんぜん、そんなことないんだが……。

なお、中国式の写真を撮る合図はイーアーサン、だった。一二の三というわけね。しかし、それを言ってしまうと最後まで誤解がとけない気がしたので、写真を撮るときは英語式にスリー、ツー、ワンて言うことにした。第一、カウントアップよりはカウントダウンの方が自然だと思うけどなあ。どうでもいいですか。

飛行機
帰り引っ張りだして本を読み始めたところ、隣の客はおもむろにiPadを取り出して映画を見始めた。なんという21世紀!!

上海とは何の関係もないけど、Kindleとかの電子書籍リーダーは飛行機内で猛烈に便利だということを再確認しました。そんなわけでこんな文章もバズってみた→http://www.google.com/buzz/102550604876259086885/bR49eTJ1DJq/


HaskellとSCons

Posted by on Saturday, 5 June, 2010

またぞろHaskellのIOの話が一部で盛り上がっているようです。はじめに結論を述べておくと、けっきょくのところ、これは「どう理解したらいいか」(どういう脳内モデルを構築するか)という話であって、正解も何もありません。プログラムを書けるのであれば、おそらくその理解は正しいのです。

それでも何かを書こうと思ったのは、こういう比喩をあまり見かけないな、と思ったからです。

HaskellにおけるIOは非常に謎めいています。たとえば、putStrという関数があります。型はString -> IO ()で、引数として文字列を与えるとそれを出力(画面に表示)します……本当でしょうか。いいえ、それがちょっとちがうんですよね、という話です。

IO ()というのは、「IO動作」という「値」です。Haskellという言語のなかで、この値は何もしません。putStrは文字列を受け取り、IO ()という値を返す関数です。IO ()自体は特にどうということはない値です。しかし、Haskellの処理系は、このプログラムを実行するときにこのIO ()に遭遇すると、何らかの処理を行ないます。この場合は「画面に文字列を出力する」という処理が行われます。

なんだかまどろっこしく言い換えただけに思えるかもしれません。

では、ぜんぜん違う例で説明しましょう。SConsというソフトウェアです。SConsはPythonで書かれたビルドシステム(makeみたいなもの)です。SConsではPythonで書かれたビルドプログラム(SConstruct)を読み込み、ビルドを遂行します。

たとえば、hello.cというファイルをコンパイルするプログラムは次のように書きます。

Program('hello.c')

プログラムではなくオブジェクトファイルを作るならこうです。

Object('hello.c')

一見すると、Programという関数は「ファイルをコンパイルしてプログラムを作成する」という関数に見えるかもしれません。ですが、そうではないんですね。SConsではProgramなどは「ファイルをコンパイルしてプログラムを作成する」というビルドアクションオブジェクトを作成し、それを返します。SConsはSConstructを読み込んで実行し、それによって出来上がったビルドアクションオブジェクトを認識して、それからあらためてビルドアクションを実行するという二段構えになっています。

ですから、たとえば

print "Calling Program('hello.c')"
Program('hello.c')
print "Calling Program('goodbye.c')"
Program('goodbye.c')
print "Finished calling Program()"

こんなふうになっていれば、まずprintの中身が3行分表示され、それからビルドが実行されるようになります。

SConstructファイルはPythonで書きますが、ここで読んだ端から実際にビルドが実行されていくというのはあまりいい設計ではありません。特定のターゲットだけビルドしたい場合やクリーンビルドしたい場合、並列ビルドに対応させたい場合などのことを考えると、実際のビルドの実行はSConsの側で行うこととし、SConstructの方ではSConsが認識出来るビルドアクションオブジェクトをせっせと作成するに留めるというわけです。

HaskellのIOも似たような仕組みになっています。putStrそれ自体は、何も実行しません。引数となる文字列をもとに、「その文字列を出力する」というIOアクションオブジェクトを返します。SConsでProgram(‘hello.c’)と書いたところで、その時点では単にビルドアクションオブジェクトが返されるだけなのとよく似ています。ただし、SConsが最終的にビルドアクションを実行してビルドを遂行するのと同じように、Haskellの処理系もmainという変数に束縛されているIOアクションオブジェクトを「実行」します。しかし、「実行」するかどうかということはHaskellのプログラムにおいてはどうでもいいことです。Haskellのプログラマにできるのは、「mainとはこういうアクションである」という定義をすることだけです。

これはたとえなので、ちょっと簡略化が入っています。細かい違いを言い出せばきりがない。ですが「Haskellにおいてはアクションというのは第一級の値である」「最終的にmainに束縛されているアクションが実行される」というのはおそらく正しいのではないかと思います。