Archive for April, 2010

X06HT Desireへ移行した

Posted by on Friday, 30 April, 2010

予約してたDesireを発売日に入手し、以来ずっと遊んでいるわけですが、ここらでファーストインプレッションを書いておこうかなと思います。ちなみに、ぼくはiPhoneを1年半ほど使っていて、そこからの移行になりました。

結論を先にいうと、とても満足しています。もちろん、iPhoneと比較すれば劣っている点もありますが、むしろ優っている部分もあり、総合評価としては若干Desireの方が好みかも、と現段階では思っています。もっとも、このへんははっきりと一方が優れているというほどの差はない感じで、個人の趣味趣向で結論はかわりそうですね。

実は今回、Android端末を真面目に(つまりWifi以外の環境で)初めて使ったのですが、非常に楽しいし便利な環境だと思いました。同じスマートフォンというカテゴリで、似ている部分も非常に多いのですが、実際にはiPhoneOSとはけっこう流儀が違います。一番大きいのは、アプリ間の協調動作が可能になっていることではないかと感じました。Androidは各種メニュー項目をアプリ側で拡張できるようになっていて、これによってアプリが当初の意図を越えた機能を持つことが多々あります。たとえば写真アプリに「共有」という機能があって、デフォルトでもPicasaやFlickrにアップロードできるようになっています。ところが、twitterアプリを入れれば今度はtwitterで写真を共有することも自然にできるようになります。iPhoneでは各アプリが独立していて、ひとつひとつホーム画面に戻って起動するイメージですが、こちらはもっと連携してる感じで楽しい。

そういえばDesireはフラッシュが動きます。昔懐かしの水玉潰しを遊んでみましたが、なるほど遊べる。さすがに重たくて、処理落ちしまくりですが、ちゃんと遊べます。映画の公式サイトなんかでもトレイラーも普通に見られました。性能については10.1で改善するんですかね。

デバイスとしての雑感ですが、まず画面がすごく綺麗。マルチタッチもあり。マイクの感度もなかなかで、わりと騒がしい居酒屋のなかとかでも音声検索がわりとちゃんとできたりしました。ハードウェアボタンはあると便利ですが、個人的にはそこまで強いこだわりはありません。でも検索ボタンがあるのは便利かも。光学ジョイスティックは微妙に使いづらく、Nexus Oneのようなトラックボールの方がいいような気もしました。スクリーンの感度が若干微妙なような。

料金プランなどはほぼiPhoneと同等。ただ、どうもi.softbank.jpのメールアドレスが使えなくなってしまったような気がします。俺が設定間違えているという可能性もありますが、いずれにせよ俺は使わなくなりました。MMS(softbank.ne.jpのアドレス)も使えません。SMSは使えます。ま、メールについては、gmailなどを使えばメールが届いた瞬間に通知が来るので、不便はないっちゃないかもしれませんけど。

データの移行について。iPhoneの連絡帳はgmailにアップロードできるようになっていて、Androidの連絡帳はgmailのコンタクトと同期を取れるので、それで全部のデータを移行しました。

えーあとはなんだろう。電源。電池消費は結構激しい気がします。が、iPhoneでもゲームとかをやったりすれば電池はモリモリ減っていくわけで、その辺は変わりないかなあというのが個人的な印象です。どっちみち遊びすぎには注意。ゲームといえば、Androidマーケットのアプリは結構充実しています。一通りのユーティリティはありますし、ゲーム系もそれなりにある印象。数としてはAppStoreには敵わないんでしょうが、このアプリがなくて困る、というシチュエーションにはあんまならなさそうな感じ。強いていうと、日本での普及度が薄いため、日本むけサービスのアプリ(食べログとか)はまだないようす。もちろんXperiaと本機が売れてくれれば、その辺は充実していくんではないかと期待してます。

なお、どうも金型はそれなりに共通らしく、Nexus One用のカバーをつけたらぴたりはまりました。カバーはたぶんまだ販売されてないと思いますが、Nexus One用のもので充分です。画面保護フィルムも同様。

カバー。カバーは大事です。今回なんでまた乗り換えたのかというと、なにやらかっこいい理由でも何でもなく、実はiPhoneを道路に落としてものの見事に割ってしまったからでありまして、カバーの大切さを思い知りました。素のままの方がかっこいいとか、信者のみなさんはそういうくだらないことを言うんですが、実際、使えてなんぼですよ。最低限カバーはつけたほうがいいですよ、まじで。私もそれまで数十回と路上に落としてなんともなかったので油断していましたが、割れるときは割れます。たかが1000円かそこらで買える保険なんですから、買っときましょう。


山本弘『去年はいい年になるだろう』

Posted by on Tuesday, 27 April, 2010

去年はいい年になるだろう

傑作! これは本当に面白かった。しかし、なんともいえない複雑な読後感でもあった。これが嫌いっていう人はいるだろう(しかもけっこうたくさんいそう)。それでも俺はこの本を勧める。

物語は西暦2001年9月11日から始まる。同時多発テロのまさにその日、人々は驚くべき事件に遭遇する。24世紀の未来からきたアンドロイドの集団が来訪、同時多発テロは未然に防がれたのだ。アンドロイドたちの目的は人類を幸せにすること。大地震やテロから各種犯罪、自殺にいたるまで、未来の情報をもとになるべく多くの人間を救おうとする。

主人公であるSF作家、山本弘はそうしたアンドロイドの一人(というか一体か)であるカイラの訪問を受ける。面と向かったコミュニケーションをすることでその行動原理を理解してもらい、好意的になってもらうため、アンドロイドたちは人類の一部と個別にコンタクトしていたのだ。だがこれによって主人公の人生は思わぬ方向へと転がっていく。

この作品の面白さはいくつかのポイントがあるが、主人公として作者自身(の10年前)を持ってきたのがひとつある。山本弘の長編は作者による自分語りとも取られるパートがあるけれど(それは本書のなかでも書かれている)、思い切って著者自身になっていることで、当時の自分が思っていたことや思うはずのことがどんどん書かれている。もちろん、「こう書くとこれは作者の本音だと思われるだろう」ということを自覚せずに書いていないわけがないのだが、それでも非常に興味深かった。

それに、主人公による手記という体裁を取っているため、世界への影響よりもむしろ主人公の身辺のパーソナルな変化がむしろ描かれる。SFといっても科学技術の啓蒙が目的ではなく、普通の小説と同じように感動させるのが目的だ、といったことを作中でも主人公が述べているのだが、まさに本書はそういう作品になっている。

主人公の手記という体裁なので、山本弘の周辺の人たちも実名でばんばん出ている。奥さんとの話はメインプロットなのでいいとして、と学会の例会のくだりが個人的にはいちばんグッときた。おたくネタも面白いし、アンドロイドが未来からやってくることでラーゼフォンの企画がポシャってしまったり、『神は沈黙せず』が書けなくなったりといったくだりも面白かった。唐沢俊一が出てきて「うぉ」と思ったり、志水一夫のくだりには少ししんみりした(もっともこのへんはある程度知ってないと何もわからないと思うけど)。

というわけで、この時点で十分面白いのだけど、個人的にすごいなと思ったのは、SF設定の部分だったかな。もちろん、未来から来るアンドロイドが人類を救う、という設定や結末で提示される時間観というのは、それほど特異なものでもない。それでも、アンドロイドの描き方が非常に巧みで、ここは凄い。この本のアンドロイドたちは人類よりも高い能力を持ち、ふつうに人間とコミュニケーションを取ることができるけれども、その根本にある行動原理が全く違う。『アイの物語』でも、その点が描かれていたけれど、そこは多少なんというか、感動的な味付けがされていた。この本はむしろ、身も蓋もない。違うのは違うのであって、実は交流も説得も不可能なとんでもない、実は不気味な存在。裏を返すと、超越的で交流が不可能なのに、一見コミュニケーションが成立しているようにみえる不思議な存在。こういう人工知能を小説で描くのはとても難しい。どうしてもコミュニケーション不能な「機械」か、ただの変な人として描かれがちだ。この本はそのアクロバティックな表現をきちんと成立させている。

素晴らしいSFだと思いました。

A


浅倉久志『ミクロの傑作圏』

Posted by on Saturday, 24 April, 2010

先ごろ亡くなられた浅倉さんの著作ということで、そういえばこれは読んでなかったなあ、と手にとった一冊。ミクロの決死圏じゃないよ。文源庫のサイトから注文できたオンデマンド出版の一冊(追記: もう買えないっぽい?)。

まえがきもあとがきも一切無く、出典すらなく、海外の短編かショートショートというべき作品が並んでいるだけという構成で素性がよくわからないのだけど、こちらの説明によると遊歩人で連載していたものをまとめたものらしい。国会図書館に入ってないとかどうなんだと思うんですが、実はそもそもISBNがふられてないので同人誌みたいなものですね。

中身ですが、SFではありません。ユーモア/ナンセンス小説かな。ニヤリとさせられるものあり、苦笑するものあり、爆笑するものあり、正直なんだかよくわからないものもあり。浅倉さんは言うまでもなくSFの翻訳に多大な功績があるわけだけど、当人の個人的な趣味としてはこういう気の利いた作品を好んでいた、というのはよく聞く話。そういう作品が24編ほど入っており、浅倉ファンとしては非常に興味深いものがある。いちばん面白かったのは「最後のユニコーン」かな。次が「住むならクジラの腹の中」。ま、しかし、どちらかといえば浅倉さん本人に興味のある人が読むべき本かもしれません。


アンブレラ・アカデミー

Posted by on Tuesday, 13 April, 2010

アンブレラ・アカデミー ~組曲「黙示録」~

未婚で妊娠の兆候すらなかった女性から子どもが生まれる事件が世界中で発生。高名な科学者サー・レジナルド・ハーグリーヴズは八方手を尽くし、そのうちなんとか7人の子供を引き取り、育てることを決意する。……世界を救うために。

10年後、7人の赤ん坊は少年少女となり、スーパーヒーロー「アンブレラ・アカデミー」を結成した。No.1スペースボーイ、No.2クラーケン、No.3ルーマー、No.4セアンス、No.5ボーイ、No.6ホラー、そしてスーパー能力を発現させなかったNo.7ヴァーニャ。6人の少年少女は発狂したエッフェル塔を打破し、人々を救った。

それからさらに20年後、博士の訃報から再び物語は幕を開ける。時間移動能力者であるNo.5は未来を垣間見、近い将来に人類が滅亡することを知り、その破滅が近づいていることを警告する。一方、とある犯罪者組織がNo.7ヴァーニャに接触を試みる……。

いわゆるアメコミのヒーローものですが、簡単なヒーローの物語にはなっていない。少年少女時代のアンブレラ・アカデミーはわりと清く正しいヒーローですが、それから20年が経過した彼らはもう中年にさしかかっていて、過去の栄光は過去の栄光として、それぞれアンブレラ・アカデミーを離れ、今を生きている。それぞれ仲違いもあれば意見の違いもある。それでも世界の危機が訪れれば集結して人々を救う。ビターなストーリーはとてもいい。

絵柄はシンプルでデフォルメが効いていて、日本のまんがに慣れてるとちょっと抵抗感があるかも。でも読みやすいので、すぐ気にならなくなると思う。

ぼくもアメコミは最近読むようになったクチで、昔からつづいているシリーズのことはよく知らないし、『フロム・ヘル』(上)(下)みたいな作品は凄いんだが、凄いだけに簡単には人には勧めづらい重量感がある(物理的にも、内容的にも)。人に勧めるならこの作品みたいなところから入るのがいいんじゃないか、と思った。

といっても凄くないってわけじゃないですよ。日本のまんがに慣れてても読みやすいストーリー展開と絵柄なので、おすすめです。

A


漫画の感想『薔薇だって書けるよ』『侵略!イカ娘』『町でうわさの天狗の子』『港町猫町』

Posted by on Sunday, 11 April, 2010

最近読んだ漫画。

薔薇だって書けるよ―売野機子作品集

ちょっと懐かしい感じの恋愛ものっぽい短編集。絵柄も話の感じも、言ってみればちょっと古い感じなんだけど、まさにこのストーリーはこの絵柄でないと、というマッチした感じはあり、面白かった。よくはしらないんですが、楽園という雑誌に掲載した作品を収録。

世間とズレた不思議ちゃんな女の子との恋愛を描いた表題作もいいが、二百年後の未来人と戦後間もない頃の女の子を描いた「遠い日のBOY」がよかったかな。同人誌から転載の「晴田の犯行」も悪くない。B+

町でうわさの天狗の子 6

6巻で全然途中ですが、ストーリーそのものが秋姫だけでなくてその周囲の人たちも込みでどんどん膨らんできた印象。この巻のよみどころはやはり三郎坊かねー。

正直、この話の空気はついてけないものがあるんですが、ま、それでも結構好きですよ。B+

侵略!イカ娘 6

イカ娘はずっと買ってたんですが、今回のアニメ化の話題で、2chではAA化されてたり、一部でウザがられているらしいという話を聞いてちょっと萎えました。まあどうでもよいといえばいいんですが。

ギャグのテイストが『無敵看板娘』に近いなあと昔から思っていて、編集が同じとかなのかなと思ってたんですが、今週のチャンピオンによると作者の安部真弘は佐渡川準の元アシスタントだったんですね。その辺の関係だったのかな。

内容ですが、高目で安定しているので安心感があります。苦悶の顔をしたてるてる坊主がよい。それとケイドロの話のオチが素晴らしいなあ。A-

港町猫町

猫と「魔女」のペアが住み、生活する港町の話。猫は男の子に変身する魔力を持っているが、心に寂しさを抱えた女の子(=魔女)にしかその姿は見えない。みんなそれぞれの事情を持って港町を訪れ、猫に出会い、前向きに生活していく。

まあ俺みたいなおっさんの読む話じゃないと思いました。絵本か童話みたいな話で、嫌いじゃないんですが痒くなる。C


映画『シャーロック・ホームズ』

Posted by on Sunday, 4 April, 2010

公式サイト

見てきました。アイアンマンことロバート・ダウニーJrがダメ人間なホームズを演じると聞いて見ましたが、見てみるとなるほどそういう解釈ですか、という感じでこれはこれで悪くなかった。暇になると壁に拳銃をぶっぱなし、飼い犬相手に化学実験、鋭い観察眼で一瞥でその人の素性を見破り、バリツのような格闘技を使いこなすというエキセントリックな変人、というホームズ像になっており、この新しいホームズ像を描き出す、ということに注力していてそこは成功しているのではと思いました。

なかでも、戦闘の最中に相手をプロファイリングすることで弱点を見破り、次の瞬間からの格闘の流れを完全に予測し、完全に予測通りに敵を打ちのめすというシーン。なるほどホームズは確かに武術を身につけていますし、確かに彼ほどのプロファイリング能力さえあれば、どこをどう攻めればどうなるかということは簡単に予測可能かもしれませんなあ。なんてことを考えつつ、これがなかなかイカス演出でありまして、一部の人間(俺)とかは大喜びかと思われます。(追記): なぜかトンファー(短杖?)を両手に持って戦ったりするしな!

とにかく基本ダメ人間のダウニー=ホームズをジュード・ロウ=ワトソンがなんとか俗世間につなぎとめるという構造になっていて、この関係性の描き方は面白かった。

ストーリーは完全オリジナルですが、まあ原作の内容をそのままやられても困惑するだけだと思うので、これも正解かな。

ただ、いろんなカットが入りすぎた結果として、シーンのつながりが不明瞭になっている箇所がけっこうあって、そこを美しい美術と映像に頼ってなんとなく乗り切っているのは個人的にはいかがなものかと思いました。てゆーかボクシングのシーン。あれ要るのか? いや面白かったですけど、あのシーン。


翻訳「Science Fiction is the Only Literature People Care Enough About to Steal on the Internet」

Posted by on Friday, 2 April, 2010

ふとコリイ・ドクトロウのエッセイを翻訳した。本来の目的はちょっと別だったのだが、「とりあえず」と読んでいるうちに、特に昨今、作家たちがtwitter上でやり取りしているあたりが思い出されてきて、これを訳すのはなかなか面白そうだと思った。訳はあんまりちゃんとしていない。

初出は海外SF情報誌《ローカス》2006年7月号だが、電子的に公開されている版の書籍”Content“収録分を元にした。したがってこの文章はクリエイティブ・コモンズ3.0 帰属・非商用・継承のもとに公開される。

「サイエンスフィクションは、読者がインターネット上での盗用に気を使う唯一の文学だ」

サイエンスフィクションの書き手として、どんなニュースもぼくに希望をもたらさない。その可能性をたたきのめす。多機能でユビキタスな有力媒体のどこにも、SFという文学の場所がない未来。

ラジオとレコードが発明されたとき、当時のパフォーマーにとっては最悪のニュースだった。ライブパフォーマンスにはカリスマが要求される。群集の前で惹きつけるようなショーを実際にやるための能力が。技術的にどんな演奏をしたかは問題じゃない。ステージの上でお地蔵さんみたいにつっ立っているようなライブは誰も見たがらない。逆に腕前はまあまあでも勢いよくパフォーマンスができたら成功した。

ラジオはミュージシャンに取ってははっきりいいニュースだった。ミュージシャンが増え、音楽が増え、より多くの聴衆に届き、多くの金を生み出すことができた。演奏は産業になった。芸術に技術が与えられるとこういう事がよく起こる。ただ、カリスマにとっては最悪のニュースだった。ラジオはカリスマたちをストリートにとどめて、ハンバーガーを焼いたりタクシーを運転したりする仕事に縛り付けてしまう。彼らもそれを知っていた。パフォーマーはロビー活動をしてマルコーニラジオの禁止を求め、マルコーニを製図板に戻し、ラジオでも利用料を徴収できるようにした。「我々はカリスマだ。最初の洞窟、最初の火の前で語られた最初の物語とおなじ古く神聖な行いをする者だ。我々を単なる事務員にし、あんたがたが我々のかわりに聴衆と歓談するのを見過ごして薄暗い裏方で働かせようなんて権利がどこにある?」

技術は与え、技術は奪い去る。70年が経ち、Napsterがぼくたちに見せてくれたのは、ウィリアム・ギブスン曰く「記録された音楽にたいしてお金を支払うことができると信じられる時代の終焉に私たちは立ち会っているのかもしれない」。確かにぼくたちは時代の終焉にいる。払いたくない人たちを排除できた時代の終焉だ。どんな音楽でもリリースされたならピアツーピアネットワークから無料でダウンロードできる(また将来はもっとダウンロードが簡単になるだろう。ハードディスクのコストパフォーマンス曲線が教えてくれるのは、いずれ記録された音楽をぜんぶポケットの中の使い捨てドライブに持ち歩いて、友達のところまで歩いていってコピーさせる時代の到来だ)。

だが恐れる必要はない。インターネットによって、レコーディングアーティストはこれまで夢にも見なかったほどの多くの聴衆に自分の音楽を届けられるようになった。君の潜在的なファンは、薄い膜のようにして、これまでのマーケティング手法ではコスト的に見合わなかったような形状で世界中を覆っている。ところが、アーティストにとって客に届けるコスト、客にとってアーティストを見つけ出すコストを引き下げるインターネットの能力によって、これまで以上に遥かに多様な音楽が届くようになった。

こうしたアーティストたちはインターネットを使うことで、またかつての舞台演芸の全盛期のようなライブパフォーマンスに人々を戻すことすらできる。レコーディング(コントロール出来ないもの)を使ってパフォーマンスというコントロールできるものに駆り立てるのだ。このやり方はグレイトフル・デッドやフィッシュのようなジャムバンドでうまく行っていたやり方だ。こんにちのアーティストの多くでは上手くいかないやり方でもある。70年に及ぶ淘汰圧の結果、アーティストたちはカリスマではなくて名演奏家になって、パフォーマンスベースの稼ぎ方ではなくレコーディングベースの稼ぎ方に最適化してしまった。「よくまあ僕たちに、猿回しの猿になってステージで飛び跳ねろなんて言えるもんだ。僕たちはカリスマじゃない、ホワイトカラーだよ。僕たちは閉じた部屋のなかで自分の音楽性と交歓し、出来上がれば自分の製品を引き渡す。プラスチック製の、レーザーで刻まれたディスクにね。それをライブパフォーマンスのモデルに置き換えようなんて要求する権利は君にはない」

技術は与え、技術は奪い去る。MySpaceのバンド、とくにレコード業界との契約なしにハコを満杯にして数十万枚のディスクを売り、ファンとじかにつながっているようなバンドが明らかにしたのは、インターネットでは音楽の新しいマーケットが生まれつつあって、そこではこれまで以上にクリエイティビティについての管理者が少ない。

けっきょく、それが著作権の目的なのだ。芸術をつくらせる人の非集中化。著作権以前の時代はパトロンの時代だった。芸術を作れるのはローマ法王とか王様とかがそのテイストを好む場合だけだった。この時代にも素晴らしい天井やらフレスコ画が作られたが、それも芸術のコントロールを市場に受け渡すまでだった。1710年に制定されたアン法によって、複製された作品への独占権がパブリッシャーに与えられ、投下資本ベースの芸術によって作られるクリエイティビティの爆発が起こった。実業家は誰が芸術を作ることができ、誰ができないかということをうまく裁定できないが、それでもローマ法王よりは上手くやった。

インターネットは、芸術を作らせる人々についての集中をもっと排除している。文化にかかわるものに関するテクノロジーの変化がどれもそうであるように、この変化は一部のアーティストにはいいことで、それ以外には悪いことだった。重要な質問をふたつ。もっと多くの人が参加するようになるだろうか? アーティストに関する意思決定についても集中化はもっと排除されるだろうか?

SF作家とファンのための質問をもうひとつ。「それって僕たちの選んだ手段にとってもいいことだろうか?」既に述べたように、サイエンスフィクションは読者がインターネット上での盗用に気を使う唯一の文学だ。サイエンスフィクションという文学は、スキャンされOCR認識され精魂込めて書き写され、アングラニュースグループに、ロシアのウェブサイトに、IRCチャンネルに、ありとあらゆる場所に現れ続ける(もちろん、イラストや技術書なんかも活発だ。ただ私はここではフィクションについて考えている。これは私の友達が技術出版やジョーク本関係をやるときの希望の兆候ではあるけど)。

書き手の中にはインターネットのSFとの親和性を強い力に換える者もある。ぼくは自分の小説をみんなクリエイティブ・コモンズライセンスで公開することで、ファンたちに広く自由に公開してもらっている。たまにリミックスしたり、新しいバージョンを作って発展途上国で利用したりといったことさえある。ぼくの最初の小説『マジック・キングダムで落ちぶれて』はTorで6刷になったが、ウェブサイトからは65万回以上ダウンロードされ、他のウェブサイトからは数えきれないぐらいダウンロードされている。

ぼくは多くの書き手が発見したものを発見した。本の電子版を公開することで出版された書籍の売上も伸びる。SFの書き手にとっての最大の問題は無名であって海賊版じゃない。こんにち作品に自分の自由時間なり金銭なりを消費しないことを選んだ人たちのうち、大多数は存在そのものを知らないからそうしたのであって、誰かが無料版を手渡してくれたからではない。

それで、どんなタイプのアーティストがインターネットでは成功するんだろう? 読者と個人的な関係を築き上げることのできるタイプだ。サイエンスフィクションが長いことやってきたみたいに、イベントでも出演者控え室なんかじゃなく一般参加者といっしょにたむろするプロだ。こういう会話に長けたアーティストはあらゆる分野に現れるだろうし、彼らはそのカリスマと技術を魅力的に組み合わせるだろう。自分のオンライン人格によって、他では替えの効かない親しみやすい関係を客と築くことが出来る。けだるい午後の暇つぶしには映画やゲームや書籍なんかはどれでもいいけど、もしある小説の著者が君の友達なら、その小説をまず取り出すはずだ。これがまさに、打ち破ることのできない競争上の優位性なんだ。

ニール・ゲイマンのブログを見るといい。ゲイマンは数百万もの読者との会話を成功させている。チャールズ・ストロスのUsenetのポスト。スコルジーのブログ。J・マイケル・ストラクジンスキーはUsenetに――バビロン5の製作中に――やってきて、熱狂的なファンを養成し、頭の固いテレビの重役人にFAX攻撃を送りつけさせ、降伏させ、配信させた。MySpaceでバンドが買ってくれた人を「友達リスト」に加えることでCDを数百万枚売ったのを見るといい。Eric FlintがBaen Barを運営する方法を見るがいい。ウォーレン・エリスが自分のサイトをリストをうまく成長させたのを見るがいい。

全てのアーティストが自分の聴衆のためのオンラインサロンを頑張るということはないだろう。全てのパフォーマーがラジオに乗り換えたわけじゃなかった。技術は与え、技術は奪い去る。SF作家は未来に浸っていると思われている。この変化をしっかり捉える準備が出来ていると思われている。未来は対話的だ。あまりにもいいものが沢山ありすぎて、1クリックで立ち去ってしまったり、クリックもせずに済ませたりすることができるようになると、ある本がいいということを知るだけでは足りない。インターネット時代、もっとも交換可能性の低い物品は個人的な関係だ。

対話が、コンテンツではなく対話が神なんだ。もし無人島に取り残されることになったとき、友達でなくレコードをあえて選ぶなら、反社会的と呼ばれるだろう。読者との会話を取り持つサイエンスフィクション作家は一生安泰だろう。


ファイナルファンタジー3の思い出

Posted by on Friday, 2 April, 2010

誰かがYouTubeにアップロードしたファイナルファンタジー3(FC版)の音楽を聴いてみた。あまりの懐かしさに涙が出るかとすら思ったけど、そうでもなく、全然聞き覚えのない曲も多い(笑)。意外と忘れてるもんですねー。

もっとも、やはり記憶を喚起させる曲というのはあるもので、僕の場合は水の世界のテーマだった。

ファミコン音楽というとピコピコしているイメージがあるけど、この曲はどっちかというと地味で、なんとなくうら寂しい。それもそのはずで、この曲の流れるシーンは世界の茫漠とした広さと孤独感がポイントだからだ。

ファイナルファンタジー3では、4人の主人公が冒険をするわけだけど、ある段階で自分たちが活動してきた世界の「外」があることを知る。この世界は実は浮遊大陸で、外には遥かにもっと広い世界が広がっている。閉じ込められた箱庭の世界だったのだ。主人公たちは飛空船を手に入れ、ついに外の世界に繰り出す。新しい冒険を求めて。

そこで出会うのが一面の海だ。

あたり一面見渡す限りの海には何もない。土地もなく、街もなく、人もおらず、敵もない。なーんにもない中、飛空船のプロペラのバタバタという効果音が虚しく響く。冒険しようにもなんにもない世界をうろつきまわって、世界がこうなってしまっている理由を探すことになる。まあ、実際には広ーい世界のどこかにイベント発生ポイントがあって、そいつを探せばいいだけなのだけど、実際正直この状況に直面したときには途方に暮れてしまった。モンスターすらいないという状況で、何をしたらいいんだかわからない、っていう漠然とした不安。そんなものがこの音楽には込められている。と、思う。

——

すこし思うことがある。

たぶんこの音楽はストリングスを使うことが意図されているんだけど、実際にファミコンでそんな流麗な音が出せるわけはなく、チープな音が組み合わさったようななんだか不思議な音色だ。でもたぶん、このサウンドはこれがいい味になっている。この曲をストリングスを使って演奏したら、音楽としては流麗だけど、ごく普通の記憶に残らない音楽になったのかも、とすら思う。

ファミコンのころにゲーム音楽がどういうふうに作られていたのかは知らない。作曲家がごくふつうに作った音楽をプログラマが可能な限りファミコンの音に移し変えていくのかもしれないし、作曲家がファミコン音楽の特性を考えてプログラムしていくのかもしれない。たぶん現実はその中間で、プログラマと作曲家がやりとりをしながら仕上げていくのだろう。

で、たぶん、そういうやりとりの中で、たまたま何かが噛みあってこういう音楽が生まれることがある。そういう「名曲」はいくつかあって、この曲もそのひとつだろうと思う。