Archive for February, 2010

S-Fマガジン2010年3月号

Posted by 向井 淳 on Monday, 15 February, 2010

英米SF賞の受賞作特集。

ナンシー・クレス「アードマン連結体」

年はとっているがまだまだ元気な物理学者のヘンリー・アードマンは、最近奇妙な現象に見舞われていた。気を失ったり、不思議な幻覚に見舞われる。元気なつもりだったのだがもう年なのだろうか。いや、何かがおかしい、それにどうもほかの老人たちにも異変が起きているようだ……という導入から始まるストーリー。齢80歳を越えると人は新しいステージに進化する、というのはちょっと珍しく、なかなか面白い。ところで科学的に微妙な訳が見られるのが気になった。宇宙時間とかさあ。

ジェフリー・A・ランディス「マン・イン・ザ・ミラー」

いやぁ、ラリー・ニーヴンが書いてないのが不思議な物理SFですね。お話の筋は無きに等しく、放物面に落っこちた主人公がどうやって脱出するかというシンプルな話。シンプルというよりもプリミティブというか、むしろたんに物理パズルというべきかもと思いますが、まあ、こういう話は俺、嫌いになれないんですよね。

キジ・ジョンスン「26モンキーズ、そして時の裂け目」

エイミーは26匹の猿をつれてショウをやる。ショウのお題目は、26匹の猿が脱出不能なバスタブから一瞬にして消え去ること。でもエイミー自身もどうしてそれができるのかはわからない。猿たちは勝手に消滅し、しばらくすると戻ってくる……。ラストシーンがちょっとよかった。

ジェイムズ・アラン・ガードナー「光線銃―ある愛の物語」

いやーこれはいいね。グッとくる。森で光線銃を拾ったジャックは、ヒーローになるため森で独りで体を鍛えたり、光線銃を解明するために勉強したりする(笑)。でも成長すれば女の子と仲良くなる機会もあったりして、じゃあ光線銃はどうするんだ、鍛錬はどうなった、みたいなことになったりならなかったり。心の奥に中二病を隠し持っているSFファンみたいな人種にはこういうのは大変ウケると思いました。

今月号はこの四編ですが、ノヴェラ2本、ノヴェレット2本というセレクトなためそれなりに読み応えがあります。ほか、先日来日したテッド・チャンのインタビューもあり。

S-Fマガジン 2010年 03月号


高慢と偏見とゾンビ

Posted by 向井 淳 on Friday, 12 February, 2010

刊行前に軽い紹介をしてましたが、ようやっと読了。いやー、キワモノでしたな。しかし笑える。

高慢と偏見』についても、改変についても↑リンク先ですっかり紹介してしまいましたが、読んでみて思ったのは改変度はけっこう抑えめ。「85%はそのまま」という触れ込みも納得で、シーンレベルで書き換えられていたりする部分は少なく、ほとんどの改変は単語の置き換えであったり、ちょっとした表現を変えているだけだったりする。それでも、冒頭の箴言からしてゾンビについての文章に改変されていたり、ところどころに差し込まれる挿絵も、19世紀風を装っているが微妙にヘタな絵で、たいへんにB級テイストの味わいになっていて素晴らしい。

で、そうはいっても骨格はほとんどそのままなので、ようするにストーリーラインもそのまま。ゾンビ禍によって滅びつつあり、ベネット家だって長い間中国で少林拳の訓練を積んでいたわりに、結局登場人物はどいつもこいつも誰と誰が結婚するだの、誰は金を持ってるだのといったことにしか興味を示さないという異常な世界に仕上がっている。そこをどう取るかですが、むしろそのイビツさを愛でるべきではないかと思いました。そういうわけで、読むなら原作の予習から入りましょう。原作を読んでいれば「そこがそうなりますか」と笑うことは請け合います。「娘たち! 死の五芒星だ!」

ところで、改変パートでちょっと感心したのはシャーロット。シャーロットの身の振り方にはかなりの改変が施されており、原作ではなんとなく印象の薄かったこのキャラを上手く生かしているなあと。いや生かしてはいないのだが、なんというか……。

ところで本作、映画化決定だそうですが、何の冗談なんでしょうか。あと日本語版公式twitterアカウントもいい具合にハジけていていい感じです。

高慢と偏見とゾンビ


身代わりのヒーローたち

Posted by 向井 淳 on Tuesday, 2 February, 2010

『侍戦隊シンケンジャー』はとても興味深い作品でした。それまでシンケンレッドとして活躍していたはずの殿様が、終盤になって実は志葉家とは縁もゆかりもない身代わりだということがわかり、本物の志葉家当主である姫様がやってきて一方的に全権を掌握、当の(偽)レッドも含め、主人公たちがこの事態をどう受け止めるかということが描かれました。

そもそもシンケンジャーでは、代々シンケンジャーを受け継いできた主人公たちだけがモヂカラというパワーを使いこなすことができ、敵と戦うことができるという設定でした。とくにレッドである志葉家は侍たちの棟梁であり、また志葉家の当主のみが敵の大ボスを封印することができるパワーを持つことができるとされています。そのわりに、思いこせば物語開始前からレッドだけ独りで戦ってきたなどという「切り札なんだからもっと大事にしろよ」という妙な設定がありましたが、実は身代わりだったので問題なし、とは想像だにしていませんでした。

それでふと思ったのは、シンケンジャーのメインライターである小林靖子の書く戦隊は身代わりのネタが多いなということです。

たとえば『星獣戦隊ギンガマン』。ギンガマンでは「アース」という魔法みたいな力を使いこなす部族で、特にその扱いに優れた五人の者がギンガマンに変身して戦うという設定ですが、ギンガレッドとなったリョウマもまた身代わりでした。リョウマの兄、ヒュウガが本来はギンガレッドとなるはずでしたが、第一話で敵組織の襲撃にあい、リョウマに全てを託して地面に割れた亀裂に落下。リョウマは兄の代わりにギンガレッドとなり、戦うことになります。リョウマは才能においては兄には劣るとされていたのですが、やがて成長し、一人前のヒーローとして敵組織との戦いに終止符を打ちました。

『未来戦隊タイムレンジャー』のストーリーは若干複雑で、複数の身代わりがあります。タイムレンジャーでは、西暦3000年から不法な手段で西暦2000年にやってきた時空犯罪者たちを取り締まるタイムパトロールたちの活躍が描かれますが、ただタイムレッドのみは西暦2000年に属している竜也(タツヤ)という男でした。本来はタイムレッドは西暦3000年で時間保護局の局長を努めるリュウヤがなる予定でしたが、彼は第一話の混乱によって西暦2000年に来ることはありませんでした。竜也はリュウヤの遠い祖先であり、リュウヤのかわりにタイムレッドとして時空犯罪に立ち向かうことになります(ちなみに、両方とも永井大が演じた)。

タイムレンジャーには「六人目の戦士」としてタイムファイアーというのが存在します。タイムファイアーに変身するのは滝沢という男で、竜也の知己かつライバルという関係にありました。そもそも竜也は西暦2000年で絶大な力を誇っていたコンツェルンのオーナーの家系で、しかしレールの敷かれた人生に嫌気がさして出奔していました(本論には関係ないですが、この「レールの敷かれた人生」と時間ものSFにありがちな「本来の歴史」を絡めて描いた手腕は見事だったと思います)。一方、竜也の父はその財力からシティガーディアンという組織を結成、時空犯罪者たちに自力で対抗を試みるようになります。滝沢はシティガーディアンに入隊し、竜也の父に目をかけられて出世していった野心家で、滝沢と竜也は対照的に描かれます。タイムファイアーも六人目の戦士としては珍しく赤色を基調としたカラーが採用されたのも、この対立関係を表現しています。

さて、戦いは苛烈を極め、最後にはついにタイムファイアーこと滝沢は戦死します。ここで明らかになったのは、滝沢もまた身代わりだったということです。本来はリュウヤが西暦2000年に来訪し、タイムファイアーとして活躍するはずでしたが、タイムファイアーが最終的に戦死するという歴史的事実を知ってしまい、自らの死を回避するためにタイムファイアーとならないことを選択します。そこで浮いてしまった変身アイテムを偶然拾ったのが滝沢という人物だったのです。

まとめると、タイムレンジャーでは竜也とリュウヤ、竜也と滝沢、リュウヤと滝沢という三種類の身代わり関係が描かれていました。

で、また、今回の影武者です。シンケンジャーにはほかにも、「本来は姉が戦うはずだが病弱で無理になってしまったので妹が代理で参戦」したシンケンイエローという身代わりの展開もありました。ここまで来ると意図的にやってるのかという気もします。

そもそも戦隊とかのようなヒーローものにおいて、人はどうやってヒーローになるか、ヒーローとはなんなのかという問題があります。東映でヒーロー物のプロデューサーをやっている白倉伸一郎は『ヒーローと正義』という本でこの問題を取り扱い、ヒーローと怪物は両義的だと断じました。ともに異様なパワーをもち、異様な姿形をしている。けれどヒーローをヒーローと認識するのは、それが「わたしたち」の側に立っている、つまり僕らの味方をしてくれる怪物がヒーローで、それ以外が敵ということです。

白倉氏がプロデューサーとして手がけた『仮面ライダーファイズ』は、この本が書かれた当時に放映されていた番組で、この視点と極めて親和性の高い作品です。この作品ではオルフェノクと呼ばれる怪人たちが跋扈していて、それと仮面ライダーたちが戦うという設定です。ただ、変身アイテムであるベルトは、主人公に属しているわけでもなくて、他の誰かの手に渡ればその誰かも仮面ライダーに変身できるという設定でした。ただし誰でも変身できるわけではありません。実はオルフェノクしか仮面ライダーに変身することはできず、主人公もずっと周囲に隠していたがオルフェノクだったということが物語終盤で明かされます。結局、ファイズの物語はオルフェノク同士が人間たちの扱いをめぐって対立するというものだったわけです。

こうしたストーリーの基本コンセプトは、生まれついての怪物みたいな存在がまずある、というものです。そういう怪物たちのうち「正義」の心を持つのがヒーローなわけです。しかし、ヒーローものがすべてそうなわけではありません。異様なパワーは本質ではないという立場を小林は取ります。戦隊物ではありませんが、『仮面ライダー龍騎』がその一例になるでしょう。龍騎は典型的な巻き込まれストーリーで、本来の「龍騎」と変身する人物は物語開始時点で既に死亡、主人公は変身アイテムをたまたま入手してしまったために戦いに巻き込まれるようになります。龍騎は13人の仮面ライダー同士のバトルロイヤルなのですが、こういう参加の仕方をしたのは彼ひとり。バトルロイヤルに明確な目的を持たない主人公は右往左往するのですが、次第に「ライダー同士の戦いをどうやったら止められるか」という目的を持つようになります。巻き込まれ型の主人公がヒロイズムを獲得した瞬間です。

上では身代わりネタをいろいろ紹介してみましたが、身代わりそのものは本質ではないのでしょう。白倉のヒーロー論ではヒーローは生まれながらのヒーローであって、超常的なパワーを持つために代替が効かず、むしろそのようなキャラクターがいかに社会と関わっていくかというのが主な問題意識であるように思えます。一方、小林の作品ではもともとパワーを持っているのではなく、成長とともに超能力を手にし、ヒーローに成長していく姿が描かれます。成長前の一般人をヒーローとなりうる舞台に引っ張り出すための設定としての「身代わり」ではないかと思います。

シンケンジャーでも、本来の志葉家の血筋ではない身代わりだったシンケンレッドが正式に当主の座を引き継ぎ、最後の戦いに挑むという、まさにこの設定を体現するような物語となりました。

まとまらないですが、以下は余談。

ここまで白倉伸一郎と小林靖子という二人を例として、対照的なヒーロー観を紹介しましたが、『仮面ライダー電王』については言及を避けました。というのは、電王はプロデューサー白倉伸一郎、メインライター小林靖子なので、上の文章とは整合性が悪い。実際、電王となる主人公は「特異点」と呼ばれる特殊な存在であり、超常的なパワーを持つが常識のないイマジンたちが人間たちと関わっていく過程が描かれたり、別な特異点が最後の敵となる展開はいかにも白倉的なヒーロー像です。しかし一方で、当初はまるでヒーローらしくない主人公が次第に目的に目覚めていく過程は小林らしい展開かもなあなどと思ったりもします。この辺、自分もあまり消化できていませんが、まあ要するに世の中そう単純に二つに切り分けることはできないということです。