川端裕人『算数宇宙の冒険 アリスメトリック!』

This entry was posted by on Thursday, 26 November, 2009

算数宇宙の冒険

ラッカー+イーガン+谷川流な数学小説の怪作。

小学六年生のソラは不思議なものが大好きな同級生のユーキに振り回されて、帰国子女のアランと3人で町内の不思議なものめぐりをしていた(この辺がハルヒ)。UFOのうわさ、ミステリーサークル、未確認生物、幽霊、妖怪変化、隠された秘宝、古代遺跡などなど。けっきょくどれも見つからないまま10月を迎えたある日、謎の転校生と3人は算数宇宙杯という数学大会に参加することになる。その大会への勉強のさなかで主人公たちは不思議な数学空間に行くことになり(この辺がホワイトライト)、最終的には異なる数学体系の世界の侵略に気づく……(この辺がルミナス)。

うまくあらすじをまとめられないけれど、ま、こういう感じ。

横書きで数式が出てくる小説、ということで、実は『数学ガール』みたいなコンセプトの本かと思って読み始めたのだが、結論としては全く違うものだった。数学ガールは基本的には数学や式展開がメインであって、数学のおもしろさが核になっているが、本書では数式はむしろおまけみたいなものであって、物語が主体になっている。また、ルーディ・ラッカーやグレッグ・イーガンの場合は作者はこういう事がわかってるなという感じがあるが、川端さんはその辺が危なっかしいというか、わかっているとしても読者にそれを伝える気はさらさらない。解析接続といった術語は出てくるのだけれど、それがなんなのかは読んでいてもよく分からないし、物語とのつながりがあまりうまくない。

そんなわけで、読後に考えて込んでしまった。この本はどういう性格の本なのだろう? 数学の啓蒙小説ではない。数学の術語が使われてはいるが、数学そのものの本ではない。あと主人公は小学生という設定なのだが、これにはさすがに無理があり、たとえば小学生が読んでわかるような作りにはなっていない。高校生ぐらいから、早くても中学生といったところではないかと思う。複素平面とか関数とか変数という考え方ぐらいはわかってないといけないので。では誰がなんのために読む本なのか? 読者を置いてけぼりにしてでも数学的な内容が書いてあればともかく、この本にはそうしたところがない。かといって、数学的な要素を楽しむべきかというとそうなってもいない。立ち位置が中途半端。

……などと思いながら読んでいたのだけど、どうもその方向でこの作品を捉えるのがうまいことなのかどうか、読みながらだんだん自信がなくなってきた。

たとえばSF(科学小説)が科学啓蒙のための小説であると考えていたのはせいぜいガーンズバックぐらいであって、いまどきそんなことを考えているやつはいないだろう……いや、作家個人として作品を書く目的がそれだという作家はけっこういると思うが、ジャンル全体を見たときに、SFというのはそれだけのジャンルではないということはおおむね合意が取れていると思う。科学的に正確であったり厳密であったりすることを至上とするという「ハードSF」という言葉があるが、これはつまり裏を返すとハードでないSFがいっぱいあるということだ。「これは科学的な厳密さの態度に欠けるので……」というのを作品の批判としてもってくるためにはそれなりの前準備というのが必要なのである。SFにおける「科学的な見地」という鑑賞ポイントは、SFという文学ジャンル全体からしてみても確実に存在はするし、存在しなければならないが、それはあくまでも鑑賞ポイントでしかないわけだ。

で、この議論をそのままMF(数学小説)に置き換えると、前段でわたしがグダグダ書いてきたこの本への批判がナンセンスに見えてくるだろう。なんというか、この本は既存の数学小説があまり目指していないところを目指した本なのかもしれない、という感じがした。だから数学的な説明がどうこう、という批判は実は的を外しているのだろう。

ただ、だからといって手放しで褒めるようなことはやっぱりできない、というか、読み終えても妙なもやもやが心に残る。たとえば主人公たちは物語の過程でいろんな数学的概念を理解・習得していくわけだけれど、基本的に本を読みました、勉強したのでわかるようになりました、ということが説明されるだけになっているのはどうなのか、といったごく真っ当な指摘は可能で、そういうレベルでの瑕疵がちょっと多いような気はする。

おすすめはしないけど、なんとも言えない奇妙な感じはほかの本では絶対に味わえない。

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