
quick silver が動かなくなってからはや半年。
12:44 PM Aug 21st webで
twitterでhigeponさんが呟いてましたので QSB を自分は使ってるという返事したのですが、若干の反響があったようです。どうも案外と知られていないようなので今日は QSB (Quick Search Box) を紹介したいと思います。
Quick Search Box って何それおいしいの
Quicksilver の作者が Google で開発をしているソフトウェアです。 code.google.com 上で公開・開発されているオープンソースソフトウェアでもあります。一種のランチャーとして便利なソフトウェアです。おいしいです。
何ができるの
QuickSilver と同じく起動しても基本的には何も表示されず、バックグラウンドでユーザの入力を待ちます。コマンドキーを2回叩くと(変更可能)簡易検索ボックスが出てきます。ここにたとえばアプリケーション名を入れることでアプリケーションを起動できます。標準で様々なモジュールが実装されており、ファイルの検索や入力文字列でGoogle検索することもできます。 OSX に標準でついてくる辞書アプリを使って定義を調べてくれたり、 Googleアカウントを設定で保存しておくと、Google Docsを検索して直接開くといったこともできます。
要するに QuickSilver と同じように、高機能かつプラガブルなランチャーです。
それってQuickSilverと何が違うの
もし利用する機能がアプリの起動だけなら、機能に大きな差はないといってもいいかもしれません。しかし、少なくとも標準では QuickSilver よりも遥かにいろんなことが検索でき、直接起動したり開いたりできるため便利です。
また、 QuickSilver とは UI が若干異なります。 QuickSilver ではキー入力に対してデフォルトの候補とデフォルトのアクションが提示され、エンターキーを入力して実行する、というスタイルでした。 Quick Search Box では候補とアクションは最初からペアになっていて、アクションを変えることはできません。一方、 Search というだけあって候補は複数がリストアップされ、デフォルト以外を選択するのが簡単です。
アプリの起動にだけ着目すると、アプリ名からアプリが実際に提示されるまでの時間は QuickSilver の方が若干速いです。0.5秒かそこらだと思いますが、なんとなくわかる程度の差はあります。
Spotlightと何が違うの
OSデフォルトの検索であるSpotlightは便利で、これをランチャーにしているという人も私の知り合いには結構います。 Quick Search Box の Spotlight に対する利点は2つあります。第一に、アプリの起動に限った場合、 Spotlight よりも Quick Search Box の方が圧倒的に速いです。というのは Spotlight はシステム内のファイルの全文検索しかしないのに対し、 Quick Search Box ではアプリだけを検索するというモジュールがあるからです。また、 Quick Search Box では各モジュールが検索結果を見つけた端からリストに追加していくという仕様なので、遅いモジュールがあっても検索結果のリスト自体は素早くリストされます。
第二に、上でも述べたように Spotlight よりもずっと色んなものが検索出来ます。とくにオンライン上のデータの検索とローカルの検索を一度に検索できるのが強みです。
ちなみに Quick Search Box には Spotlight モジュールもあります。
まとめ
Quick Search Box は軽量かつ多機能なランチャーです。さいきん QuickSilver もぜんぜん更新されてないなあと思ったり、 Spotlight だけでは心許ないなあ、という人は試してみてはいかがでしょうか。
Quick Search Box
ある日突然、エリザベス二世が読書に目覚めてしまい、いつでも何かの本を読んでいる状態に。公務は滞るわのべつまくなしに本の話題にもっていくわで周囲は大混乱……という顛末を描いた愛すべき佳品。
女王の読書する姿が楽しく、愛らしいのが特徴で、現実のエリザベス女王がどうなのかはともかく、その姿が大変いい。かつまた周囲の空気も読まずに発言するあたりも素敵で、フランス大統領との会見で作家のジャン・ジュネについて「同性愛者でしかも囚人でしたけど、でも本当にいわれているほど悪い人でしたの?」と話しかけてしまい大統領が困惑、という冒頭のシーンからしてつかみは完璧。
女王の読書のガイドとなる少年はゲイ作家を偏愛していてそういう作品ばかり勧めてきたりといった権威をからかう風潮が作品全体に漂っていて面白いが、まあそう堅苦しく考えずに読めばいいと思います。
ただ、「知的でないことの重要性」と題した解説などで展開されるこの作品の読み方には正直、ちょっと疑問が残る。読書をすること、引用をすることが知的かというとよく分からないし、正直なところ女王にとって周囲にとって読書という行為ははっきりと害悪である。なんせつまらない公務は(読書時間を削るので)女王は退屈するようになってしまうし、女王との会見でもこれまでの当たり障りのない会話ではなく、その時女王が読んでた本にまつわる当たり障りのある話になってしまう。この場合、読書はぜんぜんいい習慣として描かれない。
そしてなにより、そんな読書をする女王のことを周囲のほとんど誰も理解できない。役に立つ本、書類は読むけれど、文学や何やかやはものの役に立たないし、だから誰も読んでいない。ここがこの話の本質という気がする。女王は楽しみのために読書をする。知的であるとかないとか、役に立つとか立たないとか、そういうものを読んで周囲がどう反応するかとかは一切省みずに読みたいものを読み続けること。それによって楽しみを得ること。読書ってのはそういうことなんじゃないかなあ。
この本は、人生を変えるだの視野を広げるだの他人の身になって考えるだのといった「読書の力」ではなく(証拠に本書のエリザベス二世を見よ。ぜんぜん他人の身になって考えちゃいないのだ、このバアさんは)、そういうくだらないことからかけ離れた、単なる「読書の楽しみ」を高らかに歌い上げている。と、俺は思う。
いやーこれおもすれーわ。
最近よくある(?)、ご町内になんかふつうに神様がいて、願い事を叶えたり叶えなかったりしているという設定。舞台は島根で、ここは10月だと神無月ならぬ神在月なので、街角に神様があふれているのでした……という設定。
ところがこれが一風かわったまんがに仕上がっている。たいていこういうまんがって、神様と人間が関わったり、神様とか人間とかが成長を遂げたり、そういったことを描くことでなんとなく「いい話」に仕上がってることが多い。このまんがはぜんぜん違って、なぜか大阪ノリのギャグまんがになっている。第1話ではゲーム出身の神様をかばんで張り倒すし、なんかその関西ノリが妙にツボでした。
設定的に考えて長続きはしないと思うので、今のうちにお一ついかが。
ムダヅモ無き改革を読む前に言っておくッ!
おれは今やつのまんがをほんのちょっぴりとだが体験した
い…いや…体験したというよりは全く理解を超えていたのだが…
あ…ありのままにこのまんがの中で起こったことを話すぜ!
「ローマ教皇が大三元で和がったかと
思ったら小泉が耳から血を流して倒れていた」
な…何を言っているのかわからねーと思うが
おれにも何が起こってるのかわからなかった…
頭がどうにかなりそうだった…
イカサマとか豪運とか
そんなチャチなものじゃあ断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
……っていうまんがでした。
なんでこのまんがの登場人物は麻雀に負けると物理的なダメージを受けるのだろうかとか、「いかん伏せるんだプーチン!」とか言ってるけど伏せるとダメージが減るのかとか、ティモシェンコ戦て最終的に麻雀での勝ち負けじゃなくね?とか、せっかく本編では「金将軍」てしか名前が出てない北の国の人の名前は裏表紙ではメカ正日になってるとか、そういうのはすべて些細なツッコミであろうと思われます。
ところでアニメ化するそうですがヘタリアより大変そうな気が。




昨年の『SFが読みたい!』年間ベスト海外SFにおいて、SF関係の作家、書評家などから圧倒的多数の票を受けトップとなった作品『時間封鎖』の続編。
……ただ、あらかじめ書いておくと、私は前作も好きではなかったし、正直に言って今回はもっとだめだと思った。といっても、明確にひどいところがあるということはない。言ってみれば平凡な作品だと思う。
ある日突然に地球が謎の障壁によって外部の宇宙と隔絶、しかも地球は外の時間の1億分の1の速度でしか進まなくなってしまう。この「スピン」現象によって、地球上で40年が過ぎるうちに太陽は寿命を迎えてしまう! というすごい設定を縦軸に、3人の男女の人間ドラマを織り込んだのが前作。ごく幼いときに時間封鎖を体験し、その解消を目指して研究したり、火星植民や障壁を作り出した謎の存在「仮定体」をめぐる考察などが繰り広げられたりといったパートは面白くはあったのだが、個人的に肌に合わないなあと思ったのはキリスト教っぽいところ。スピン現象の不安によって既存、新興どちらの宗教も大流行し、3人のうちひとりは特殊な宗派にのめり込んでいく。その反目と和解がドラマを駆動させていたわけだが、この辺の描き方はいかにもアメリカ的で好きになれなかったのである。
前作では最終的にスピンによる時間封鎖は解消され、一方でくぐると遠く別の星系の惑星へとつながる謎のゲートがインド洋沖に発見されたところで終わる。本作は前作から30年ほどが過ぎた後、その新惑星が舞台。今回は火星植民によってもたらされた「第四期」技術や仮定体とのコンタクトの試み、惑星に降り注ぐ機械の破片といったSF設定をちりばめつつ、仮定体の正体に迫る人々と、それとどうやら関わった末に失踪してしまった研究者の父親を探す女性の逃避行といった構成になっている。
前作の『時間封鎖』は、時間封鎖現象によって引き起こされる社会の反応がいかにもキリスト教的というかアメリカ的で、個人的には不満の残るものだったとはいえ、地球全体を封鎖するという設定や火星植民のくだりは個人的には面白かった。ところが『無限記憶』の方にはそういう凄いネタがあんまりない。降りしきる機械の破片という情景、眼をもった薔薇という気持ち悪い描写なども悪くはないけれど、どうも小粒感が残る。設定以外に何があるかというと、たとえば物語として面白いかというと、つまらなくはないがごく普通と言っていい。要するにどうしようもなく平凡なのである。
まあ、そういうのを読むのもたまには悪くはなくて、しんどい本ばっかり読むとつかれてしまう。あまりややこしいことを考えなくてもさらっと読めるというのは決して欠点ではないとも思うけれども、ただ褒めるところを見つけるのが難しいんだよなあ。
とはいえ、3部作の2作目だという事情もこれには関係しているだろう。結局、ツカミは1作目で済ませたわけだし、最終的に3作目で解決されるようなところ(たとえば仮定体の正体とか)を2作目でやっちゃうわけにはいかない。もちろん、そんな事情は斟酌する必要はないんだけど、単なる繋ぎ以上の何かを本作に込められなかったのがウィルスンの失敗だろうというのが本作に対する個人的な結論である(解説によると3作目への伏線が張りまくられてるらしいんですけど)。
おおおおおおお Chrome で IME が動くようになってるよ!
いやー実際のところ、某氏と顔をあわせる度に「Mac Chrome の IME てまだなんすかねぇ」とかしゃべっていたんですが、ついに、ついに、ついに来ましたね!
dev channel ということもあって、さすがに常用するのに適しているかといわれると人柱専用くさいですねという気がいたしますが、 IME が使えることによってようやく「人柱になることができる」ようになったかなと。
おれはこういう件に関しては人柱上等なので、ひとまずFirefox を使わないで何が起こるのか見てみようかなと(すでにニコリ・コムのパズルが遊べないことがわかってどうしようか考え中なわけですが)。
なぜナウやnawではなく「なう」なのか〜twitterのなんとかなう問題とかが代表的だが、この「◯◯なう」という表現がtwitter特有のものだという誤解がだいぶ強いようである。この辺の起源はいくらか込み入っているが、かいつまんで述べると2004年暮れぐらいから一部で使われ始め、mixiなどを通じて伝搬していったものが、相性の良さからtwitterで広まったというのが正しいだろう(注: 以下の文章は、上のリンク先の内容とは基本的に無関係です)。
私にとってはマサトクさんが使っていたという印象がある。たとえば、一番最初の使用例は2004年11月20日の茶箱ナウであるらしい。マサトクさんはその後もしばらく使い続け、ツーリングに行ったといっては一休みのポイントの度に「◯◯ナウ」というタイトルで写真1枚と一言二言のコメント、というスタイルの日記を(ore.toサーバの公開ブログとともに)mixi日記に上げ続けていた。ちなみにそのマサトクさんによれば起源は、
.@jmuk @takeohosoi @nijimu や、ちょっと前にも書いたけど、(同人?)音楽系つながりの @nacky あたりが「××ナウ」と使っていたのから来てます。前に聞いたら「大岡山ナウ」が発祥だった由。(masatoku)
とのことなので、彼と彼の知り合いが使っていたということである。肝心の「大岡山ナウ」はまだ見つけてないが、2004年暮れに使われだしたという理解で正しそうであり、私も2005年ぐらいではそこそこ使っていた気がする(この日記でではなく、mixiなどで)。
当初はカタカナ表記だったが、ひらがなへの転用も早い時期に行われている。わたしのマイミク日記を多少あさってみたが、たとえば2006年初にはすでに利用例があった。調べればもっと遡れると思うが、twitterの最初のプロトタイプは2006年3月、一般公開は8月。日本人が利用するようになったのは2007年中頃ぐらいではないかと思われるので、これもまたtwitter特有というわけではない。個人的な印象では、「◯◯なう」という表記はtwitterとは別に(個人的な印象ではmixiを通じて)、(同人)音楽系から次第におたく方面に広がっていったミームだと考えられる。起源が起源なので、なんとなくおたく臭いのもむべなるかな、という気もする。
twitterへの移入がどういった経路を通じてのものか、どう広まっていったのかはまだ調べきれていない。自分のtweetを多少調べてみたが、どうも自分がtwitterに登録した2007年6月頃では自分はすっかり飽きていたようで、そういう表現を利用していない。また、発祥となった人たちも飽きていたようで、そういう発言はtwitter上では見られない(たとえば上で挙げられているnacky氏は2007年頃のtweetでは「@大岡山」のような発言をしていた)。当時はそんなにtwitterではそういう表現を使っている人も多くなかったような気がする。ただまあ、mixiでは「◯◯なう」といった発言をする人は当時もいまも山ほどいるので、そうした人たちの利用によって次第にtwitterで勢力が拡大されていっただけで、特定個人がキーになったというわけではないだろう。このあたり、どのようにtwitter上でポピュラリティを獲得していったのかは今後の研究を待ちたい。
ところで、mixi日記で広まったりtwitterで勢いを増したのは、この表現が非常にライフログと相性がいいからだ。mixiは携帯電話から日記の投稿をサポートしていたし、twitterも各種のモバイルツールが完備されてきてどこでもつぶやけるようになってきた。で、今どこで何をしているというのをつぶやくときにはこの表現は短いわりに言語として間違っているのでジャーゴンと判別しやすいといった事情があり、使われだしたのだと思う。モバイル環境での更新は、古くはモブログといって一部の物好きがやっていたけれども、足廻りを整えるのが面倒でやりづらかった。mixiにしてもtwitterにしても、そういう面倒な部分は誰かがやってくれているのでモバイル利用がされやすく、それに応じてこのミームも勢力を広げたのであろう。
しかし、思うのはソーシャルネットワークの狭さである。twitterも含めて、ソーシャルなサービスというのは基本的に自分の周囲しか見ないということだから、ある界隈での常識は外からは全くうかがい知ることができない。「◯◯ナウ」はそういう事例として捉えると面白いのかもね。
なかせよしみ『でもくらちゃん』
出茂倉家には双子の姉妹がいました。ふたりはそれぞれ結婚してそれぞれ双子を生み、四人はそれぞれ三つ子を……というわけでそっくり同じに揃った12人の子供たちのおはなし。同人誌として活動していたものからより抜きされたのだとか。エピソードによってページ数がまちまちだったり、出茂倉家の説明があったりなかったりするのもそれが原因かな。おれはこういう同人誌は基本的に見ないので全く知りませんでしたがその筋では有名なのだとか。リュウコミックス、全部は見てないけど結構はずれが少ない印象があります。先日紹介した『第七女子会彷徨』もリュウ。
山田芳裕『へうげもの』[9]
あるいは、千利休の切腹によって終わりを迎えるのかとさえ思っていました。それぐらい存在感のあった陰の主役、千利休の死。首を抱える古田織部の絵は圧巻です。ちなみに利休の介錯人は蒔田淡路守であるらしく(異説もあるようだが)古田織部というのは独自の展開。もちろん独自の展開が非常に多いのはわかっていつつも、最近の自分の戦国時代観はこのまんがにずいぶんと影響されてる気がします。本能寺の変じゃ本能寺は大爆発したような気がするんじゃよー。それもまた絵の力ではないかと思われます。
三島衛里子『高校球児ザワさん』[2]
相変わらずのノリ。基本的にやっぱ観察まんがなんだよなーと思いました。電車に乗り合わせたサラリーマンが主人公達を見ながら高校時代のことを回想したり、徹夜明けの大学生が友情について考えてたり。ザワさんは主人公だけど、したがって基本的にほとんどずっと観察対象だからあんまりしゃべらないし、しゃべっても自分の事を詳らかにしない。そういうのを見ながら、視点人物がいろいろ思うっていうパターンなんだよなと。で、この2巻には「連載前の読み切り」というやつが載っていて、いくつかのエピソードはアップデートされて1巻に掲載されていたりするので読んで比較するのは面白いかもだけど、そういうわけでわたしが今の視点から読んで一番違和感があったのはハムの話。これだけザワさんの内面がわりとしっかり描かれるんですね。こちらの方向に進んでいれば、また違ったまんがになっていたかも(ただ、それで面白くなったかはよく分からない)。それはそれとして、留守電無限再生の回がおかしかった。