鉄塔 武蔵野線 [SB文庫]
読みたいけど持ってない本、てのがある。
どこかで聞きつけたり、何かで読んだりしてタイトルは知っているし、口振りやら語りようからしてとても面白そうなので読んでみたいけれどもまだ入手してない本。そういう本の存在を知ったとき人はどうするかというと、簡単に言えば二つにわかれる。
ひとつは八方手をつくしてなんとしてでも今すぐ入手したいという人。この心情はよくわかりますね(これが病膏肓になると途轍もないコレクターになる)。もうひとつはタイトルを心にしまって特に何かの活動はしないという人。わたしは後者である。
べつに欲しくないわけじゃないのだ。新刊書店で買えるなら(余裕があれば)買うし、図書館にあったら借りるし、その辺のブックオフをぶらぶらしていてたまさか見かけてしまったならそのときが読みどき。そんな風に考えながらなんとなく生きていて、生きていればそのうち出会えるもんだろう。そうでないならそれもまたよし。
皆さんにもそんな本はあると思うが、わたしにも勿論そのような本はいくつもあって『鉄塔 武蔵野線』もそのひとつだった。
『鉄塔 武蔵野線』は第6回の日本ファンタジーノベル大賞受賞作。同時受賞は池上永一の『バガージマヌパナス』だからこれは当たり年だなあ。
夏休みのある日、小学5年生の見晴(みはる)は、家の近くにある奇妙な鉄塔に「武蔵野線75-1」という標識があるのを発見する。見晴は無類の鉄塔好きだったが鉄塔にそんな名前がついて連なっているということをそれまで意識したことがなかった。ここから遡れば、どこかには「武蔵野線1」がある。その先には何があるのか――。友達のアキラを連れてふたりは武蔵野線を辿る冒険に出かける。……という骨子は有名だし、映画にもなったから知っている人も多いかも(映画は見てませんが)。
さて、そういう「あの」本、みたいに思っているモノを発見してしまうと、読むときにはその意気込みが空回りしてしまってうまく楽しめないということが往々にしてある。けれどどんな書評でも解説でも説明でも、その本そのものをそのまま伝えるというわけにはいかない。この本の場合は上の魅力的な粗筋に加えて「鉄塔小説」というコンセプト、下読みした大森さんの話や写真のこと、そういった諸々の情報は入るのだけれど、読んでどうかっていうあたりの面白さについてはあまり語られないからかもしれない。ちなみに今回の本では、応募時に大量に添付された鉄塔写真をすべて掲載した「完全版」とのこと(最初の刊行時も最初の文庫化の時も、写真はかなり落ちているらしい)。ほらまた、やはりここにも体裁が出てくるのですよ。何にせよ、前人未踏の「鉄塔小説」となればその独特の体裁が気になるものだし誰しもそこに言及したくなる。
でもこの作品はそれだけじゃないよね。
確かに武蔵野線鉄塔のすべての写真を著者自らが撮影し、その綿密な現地調査の上に少年たちの足取りを描き、鉄塔好きの少年に語らせ、各鉄塔の形状や特徴を詳細に描く「鉄塔が主人公の小説」とも言うべきオンリーワンな作品であるのだ、これは。
けれども、全編をですます調で通し「あれは199×年の夏でしたから、もうずいぶん昔のことになります」で始まり大人になった自分が昔を振り返るという文体。また作中でなんともいい加減なことを言いあう少年たちのその言葉の数々がいかにもありそうなこと。そのようなスタイルから醸し出される「子どものころのささやかな冒険」的なものへの懐しさってのがあって、それはこうやってわたしが説明しようがどうしようが伝わるようなタイプのものではなく、やっぱりそこは読んでみないとわからないわけだな。
物語の中身としても、主人公は「武蔵野線1」の先には原子力発電所がある、と直感しアキラにもそのように語るわけだが、読者であるわたしたちからすればそんなことはあるはずがない。あるはずがないからこそ「どうなってるんだろう、何が起こるんだろう」っていうドキドキワクワクが不思議と共有される、そんな風に思った。
ただし結末は最初のものとは異なり、最初に文庫化されたときに書き換えられたものとなっているらしい。でもこの決着はすごく良かったな。元はどうだったのだろう。
念のために書いておくけれども、これまでこの本を紹介した記事がそういう点に触れていない、といった指摘をしたいわけではない。そうではなくて、どんな良い書評でもその本のすべての側面をつまびらかにするということはできないということを言いたい。どれだけ事前知識を得ていても、やはり読むことの価値は失なわれない。そんな読書体験でした。
ま、復刊してよかったよかった、てことです。読めてよかった。
完結しましたね。
アニメーター青春グラフィティてことで、そんな鬱な展開にもならず、爽やかに終わった。とても心地良かったです。面白かった。
ところで最初はちょっと誤解していたんだけど、このまんがの舞台ってちょっと前のことなんだよね。そう、たぶん90年代前半くらい。作者がジェイデッカーのキャラデとかをやってたころだな。アニメーターがセルに絵を描いていたころの。いやー彼らオレより年上でしたか。スイマセンですだ。はは。
その時代が選ばれたのはもちろん作者が自分の熟知する場を選んだということでしかないのだろうけれど、「今これってどうなんだろ?」って最初は思いましたですよ。ほんとねえ。ははは。でも、最初っからそのつもりで意図的に昔だったのか知りませんが、だから最終回で「その後」が描かれるときのその後というのがリアルな「いま」なわけで、そこはちょっと面白かったかも。
ああしかしなんだな、これはおたくの感慨なのだけど(このまんがの読者なんておたくしかいないと思うわけだが)、やっぱ「キャプテンハーロック」はカッコいいし「宝島」がそう来ますかって感じじゃないですか。メロディが流れるからね。こういうのっておたく相手ではよくあることだと思うわけだけども、うーん、なんだ、こいつらってのは選曲が卑怯でしょうやっぱり、なんたって名曲だからさ。
ついぐっときてしまうよ。
だからかな、上で書いた意味でちょっと「おッ」て思ったけど最終回は余計かも派。1つ前で終わって、それで良かったんじゃないかな。
さて、昨日は試してみたけどやっぱウィジェットよりはテキストリンクの方が好きなので(可搬性もあるしね)7巻くらいここはずらっと並べましょう。
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菌が地球を救う!―あなたのまわりの発酵菌が人を幸せにする
なんだかあれだな、『もやしもん』のネタ本みたいな本であった(本書の刊行はついこないだの9月24日ね、為念)。
言うまでもないけれども(わたしは大して読んでないけど)小泉武夫の方が先なのでそういう言い方をするのもおかしなことなのだし、まあいつものような感じであるなあという気もする。わかりやすさを優先したのか妙に強い言い切りが多かったのだがそれもそれだし、ゴミの処理やらエネルギーの話やらから食い物の話から、いろんなトピックがコンパクトにまとまっているあたりはグッド。
それにしても言及してあるトピックはいやに近くてこれはたぶんあれだな、『もやしもん』人気にアテこんで作中の情報をサポートするような意図で依頼した本なのだろうなあトピックとかも依頼に組み入れたりしてさ、なんて思いながら読み終えてあとがきで茶を吹いた。
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農大を舞台に菌が活躍するマンガが人気なんだそうです。どうも私をモデルにした人物も登場するというんですが、私が日本に紹介した「キビヤック」や「シュール・ストレンミング」などをマンガのネタにしているようです。よろこんでいいのやら、怒っていいのやら、「モデルになった俺に挨拶がないなあ」なんて思っております。
うはは。
しかしなんだ、キビヤックについては「植村直己の本か何かで読んだことがある」と蛍につぶやかせていたけれども、『もやしもん』では小泉武夫にまるっきり言及していないというのは謎ではある。
なんてことをmixiに書いたら指摘されたが石川雅之はインタビューなどでは「小泉武夫の本は読んだことがない」とか言っているとか。樹教授のモデルが小泉武夫ではないってのはいいんだけど、読んだことないってのは本当かなあーという気がしないでもない。とはいえ疑っても栓なきことではありますが。
てことで本としてはそういう人気をアテこんだ本ではありますし小泉武夫のベストかってーと違うと思いますが、なかなか面白いです。読んでると納豆喰いたくなるんだよなあ。
有頂天家族
意外なことに新境地だった、というべきか。これまでの作品群とは似ているが異なる作品である。
森見登美彦。『太陽の塔』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞してデビューした作家で、そのデビュー作の中身はといえばモテない大学生が京都を右往左往するというものであり、それがちっともファンタジーに感じられないボンクラどもの心を鷲掴みにした。その後も京都を舞台に、女っ気のないボンクラ大学生のうだうだした生活を得意としている。例外といえるのもホラーの『きつねのはなし』くらいか。ただ、『太陽の塔』はリアリズム小説だったがその後の作品では幻想味やSFっぽい設定なんかも多い。
で、この『有頂天家族』はやっぱり京都が舞台であり、やはり斜に構えたがる男が主人公という基本的なフォーマットは共通しているし、偽電気ブランとか詭弁論部といった共通設定も垣間見える。のだが、雰囲気が異なる。基本的な物語は人間に隠れて暮す狸たちの(やっぱり)うだうだした生活なわけであるが、作品のテーマがこれまでと異なり、この狸どものつかず離れずな家族愛のようである。
詳しい登場人物については作者自身が紹介している のでそちらを見るのがよろしかろうが、一家四兄弟+母(父はすでに亡い)という設定で、しかしまあ何をするかといえば大したことをするわけではないが、それなりに楽しく暮らしている。そんな彼らの家族愛は、妙に暑苦しいところがなくて良かった。
もう少し考えると、彼らの家族愛はなんというか非常に都会的なのだな。だいいち一族同士の抗争なのだから本来なら親戚があれこれ出てきてもおかしくないところだが、ほとんどは核家族的な関係のみである。古都が舞台だが父より上の者については遥か歴史の彼方でおぼろげな輪郭しかなく、親戚一同が集まったりするようなこともないし、逆に言えば親戚同士のややこしい関係みたいなリアルにはありうるが面倒くさい話も特にない。そもそも家族すらふだんから顔を合わせるようなたぐいのものではないし会えば仲睦まじいということもない。けれども事が起これば家族が一致協力するといった風。そもそも森見の作品では、舞台は京都だし言葉づかいも古めかしくしてあるのだけど、感性は非常に都会的だし現代的で、だからこそわたしなんかには非常に心地良いものなのだろう。
基本的な文体やキャラクターや展開はこれまでの森見のフォーマットに則ったものなので同じようにも見えるのだが、そういった点がこれまで通りではなく、そして面白かった。
ところで、『太陽の塔』を読んだときには「滅茶苦茶面白いのだがこの作者はこればっかりということになりはしないか。それでいいものか」と真剣に思ったものだった。それですぐあとに出た『四畳半神話大系』なんかもしばらくは「同じような話なのだろう、それでいいものか」と思って忌避してたりしたのである(後に読んで滅法気に入ったものだが)。けっきょく今まで(『きつねのはなし』という例外はあるけれども)基本的に似たような話ばっかりでここまで来た森見だったが、ことここに至り、同じような世界観で新境地を拓いているのを読むと、面白かったが一抹の寂しさを感じてしまうのだった。読者というのは勝手なものだ。
とはいえ、わたしが楽しく読んだ部分には赤玉先生と主人公と弁天様のあたりの関係の占める割合も大きく、これはこれまでの森見の基本フォーマットといえるから結局同じようにしか楽しめてないのではないかという説もあるのだけれど。
登場するキャラクターのなかでは矢二郎が良かったかなあ。とくにラストの大活躍はほとんど当然といっていい流れであるにもかかわらず、うっかり感動をしてしまったことであるよ。あと海星もいいよな、うん。
Amazon.co.jp ウィジェット
しかしこの(↑)ウィジェットはどうかね? 重い気もするけれど。
ラークライト―伝説の宇宙海賊
とうとう星雲賞まで受賞してしまった『移動都市 』のフィリップ・リーヴの新作! ただし、ハリポタからこっちよく見かけるハードカヴァーのジュヴナイル。まあ『移動都市』もジュヴナイルなんですけれども。
サー・アイザック・ニュートンが万有引力の法則のあとに錬金術の秘術「化学融合」を発見したあとの19世紀。その秘術により宇宙に進出した大英帝国は栄華を極めていた。主人公は、月の裏側にある古びた家「ラークライト」に住む12歳の少年アーサー。母はすでに亡く、ちょっとうるさい姉のマートル、さほど有名ではない研究者をやっている父のエドワードと3人で暮らしていたが、そこが謎の宇宙生物に襲撃される。アーサーは姉と命からがら逃げ出し、逃げた先で出会ったのは悪名高い宇宙海賊ジャック・ハボックだった……といった粗筋。
『移動都市』は「これがジュヴナイルか!」とラストの展開に驚いたものだったが、こちらはもう少し手慣れたのか、わりとふつうのジュヴナイル。特に何の説明もなく火星人とか月の生物とか宇宙を漂流する魚モドキとかが出てくるあたりにオレの中の「心の狭いSFファン」心を少し刺激したが、しかし、そういうものも腹が立たないほどには面白い。原書と同じイラストレーションも楽しくて、はじめの方、13ページにあるラークライトの見取り図を見て楽しそうだと思えるなら大丈夫。
個人的には『移動都市』の方が好きだが、ウェルメイドなジュヴナイルが好きな人にはぜひ。映画にもなるらしい。
さて、先週頭に引っ越しをしたのだが電話の開通手続きに滞ってしまい、しばらくネットに繋がらない生活になっていました。いやまあ、携帯端末とかネットカフェとかで少しアクセスしたりはしてましたけどね。
ところで、直前の文章へはかなり反響があったようですが(言葉がキツい方が耳目を集めやすいの法則か何かだろう)、メンドくさくて私は追っていません。しかし、おおむね好評だったようなのでそこは驚きましたね。もっと揶揄されまくりかと思っていましたが。まあ、されるところではされているんでしょう。
ただ、別に自分の日記の読者をアホ扱いする 意図であの文章を書いたわけではないことは明言しておきます。あの文章における「君ら」というのはむろん、おそらくブックマークはされるだろうそこ経由で読んだ人のつもり。2ちゃんねらーの「おまいら」みたいな、漠とした「なんとなくそういう人」みたいなものを二人称に仮託しているだけで。
しかし、ともあれおかげさまで自分の日記を書くスタイルというのを少しみつめなおしました。つまりさ、どうも世の中では、自分の生活に役立つであるとか、日常生活を改善するであるとか、そのような有益な記事というのが重要であると思われていて、注目されているわけですな。
それは良いことだと思うけれども、わたしはそんなことはこれっぽっちも目指してない。もう少し謙虚な言葉で言い換えれば、自分ごときの知識文章が人様の改善に役立つわけがないと思っているのです。たとえばネットを放浪して何らかの知識を得たとしても、基本的には自分は後発であって皆それくらいは知ってるでしょ、というつもりでいるわけで、そうでないことがわかるとわりとナイーブにショックを受けたりしているわけですな。そういう態度でいるかぎりは、人様に役立つ記事なんて永遠に書けないでしょう(書くつもりもない)。駄文雑文私事、そんなものでこの日記は構成されている。役に立つことはほかの誰かが書いてくれているようなので、わたしはこれからも駄文を書きつづけることでしょう。それがたまさか誰かにとって有益なことも、あるかもしれないけれど。
でまあ、駄文というやつはは書き手に芸がなければ愉快なものにはなりえないわけで、人気の差というのはたぶんわたしがつまんないヤツだということに尽きると思います。
ま、どうでもよろしいか。
ちなみに、計算器や計算機を使えば暗算など不要、というのはわたしも書きながら思いましたが、それでも手で計算をする手順は知っていないとまずいとわたしは思っていますし、それにまた、たとえば路傍でのちょっとした支払いなどについて計算するという場面を考えれば、それは(カバンなどから取り出す時間などを含めれば)電卓より早く暗算できる。できるようになる。全く無駄な能力ではありません。
http://www.popxpop.com/archives/2007/09/10_14.html
前にも似たようなネタがあったが、今回も内容がアホらしすぎてびっくり仰天、感心している人が多いようでさらにびっくり仰天だ。こんなのでいちいち感心しているようじゃ日本の算数教育なんて「ゆとり教育」云々以前にとうに崩壊しているってことだよなあ。いやいや、ほんと、君らは算数とか数学とかっていうやつを、義務教育でいったい何を学んだんだ? かけ算は九九でおしまいか?
けっこう心の底から呆れているんだが、これに素直に感心している素直な子たちに聞きたいんですけど、君たちはふだんどうやって暗算してるわけ? いやまあ、7番目のやつは確かによく使うけど、それって常識じゃない?
君らが本当に覚えておくべき計算技法は、次のあたりの公式だ。こういったことはどれも、遅くとも中学校で習う。
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(a+b)^2 = a^2 + b^2 + 2ab
>
(a-b)^2 = a^2 + b^2 – 2ab
>
(a+b)×(a-b) = a^2 – b^2
>
a × (b×c) = (a×b)×c
>
a × (b+c) = a×b + a×c
たとえば 99 の自乗は (100-1)^2 だから 10000 – 200 + 1 = 9801 になる。35 × 45 = 40^2 – 5^2 = 1575 とか。このメソッドを手に入れると、だいたいどんな2ケタ同士の計算はそれなりの速度でできる。それにまあ、うまく使えない場合でも脳内で筆算を展開すればいいだけの事。
日本の算数教育をナメたらあかんよほんまに。瑣末で細々としたルールではなく、それらを包括した一般規則を君らはすでに習っているのだ。確かにこれらの法則は一般的なので、実地の問題に適用するのはそれなりの手間であるが、当たり前ながら実地で適用しながら、適用法を学び、身につけていくわけである(その結果として上で書いたような知識と似たようなものが手に入れられるようになる)。重要なのは瑣末なルールをつめこむことではない。
いくつかの瑣末な例から一般則を得ること、逆に得られた一般則を実地に応用できるかたちに理解すること。それこそ算数や数学を義務教育で学ぶ目的なのである。このレベルでそんなことも出来ていないってのは、ようは中学校の勉強がちっとも身についていないということじゃないか。
願わくば、こんな小中学生レベルの算数 をライフハックなんて呼んで有り難がるアホが早くいなくなりますように。
むかしむかし。日本人のわたしたちが「ブログ」という単語をあまり知らなかったころ。
当時のウェブ日記書き、あるいはテキスト系サイトの管理人のあいだにも、やっぱり無断リンクに関する論争てのがあった。というか、このテの話題というのは定期的に発生しているんだと思うんだけど。
その当時、麻弥さんという方が実施し、当時としては破格といえる700人以上が答えた「リンクについてのアンケート」というのが http://www12.big.or.jp/~meher/books/linkenquete.html これだ(ちなみにわたしも答えました)。
この議論をやる人は必読、というわけじゃないんだが、当時の空気を伺い知ることができて面白いんじゃないかと思うし、一読をお勧めしておく。
ところで、今回また無断リンク論争が起こってるらしきことは知ってたけど面倒くさくて読んでなかったんだけど、たけくまメモ を見てふと思い出したので言及してみた。
以下はちょっとした思い出話と雑感。
わたしが「ウェブ日記」をはじめたのは99年の夏頃だったと思うが、当時は日記単位でアンカーを作る(name属性を使う)のも一般的になってきていた。「この日記にリンクするときには http://foobar/99mm.html#1999mmdd にリンクしてください」的な文言を掲げる日記もあった。 nDiary とかそういったツールでもそういうものが自動生成されはじめる。 tDiary の開発は2001年だったっけ? あれ、2000年? まあ、その辺。
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ブログが普及して以降、ネット状況に大きな変化があったとすれば、その最たるものが「リンクを張る行為に気兼ねがなくなったこと」ではないだろうか。
という表現は、ブログという言葉にやっぱり違和感を感じるのだけれど(nDiaryなども含めた)ツールがこれを促進したというのは、確かにそういう面もあるだろうと思う。
無断リンクを禁ずることは原理的にできないが、無断リンクを避ける方略というのはある。簡単な方法はアドレスをわからなくしてしまうことだ。一番簡単な例としては、最新の文章だけを表示して残りを消してしまう。こうすると過去の発言にリンクしようとしても難しい。それでも引用の上でリンクする人は現れるだろうけど、人数は激減するだろうと予測される。また、1つのページにべたっと文章があって name も何もないとリンクは減るだろうと思う(ただしアーカイブのページにリンクされることはありうる)。
個人的な体験としては、たとえば昔、わたしは「この日記にリンクするときは……」式の文章を書いていたのだけど、あまりその指示に従ってくれる人はいなかった。けれどもある日、ほかの日記を真似して日付のところに自分自身へのアンカーを入れてみた(というか、その前は入れてなかったわけだな)。すると、特定の日付へのリンクをしてもらえることが多くなった。実在するURLでもクリッカブルでないものは無視されやすい。
無断リンクをしてほしくない場合、そういうわたしとは逆の努力を重ねることで無断リンクを減らすことはできる。でも、そういうことを(ブログツールで)やるのは面倒くさいんだよな。
Shiroさん (2007/09/15 12:22:02 PDT)のところより
Wy g ~ π^2 。なるほど面白い。「周期2秒の振り子の長さを1メートルとする」という定義があったというのは知らなかった。
けれども、「振り子の周期が2秒であるときの長さ」と「地球の直径の4000万分の1」(正確には北極から赤道までの距離の1000万分の1だが)が等しいというのは、やっぱり同じくらい面白い偶然じゃないだろうか。
これは偶然か?
偶然じゃない、とすると美しいのだが、「2秒」という単位がキリがよいのは「秒」という単位を使っているからである。けっきょくこれはわたしたちの使っている単位系において美しいというに過ぎない。というわけで、「Why g ~ π^2」という言葉は、さらにべつの面白い偶然を提示しているだけだという気がした。面白い偶然なのでいいのだが。
しかし、この発言を逆に考えれば、ようするに「ある単位長さの振り子を作成し、そのときのπ^2を重力加速度と定めれば周期の長さは2単位時間となる」ということである。とはいえそう言われても、だからどうしたという風にしか思えないよなあ。
そういえば。
今年の京都SFフェスティバル は10月の6、7日だそうですが、わたしはまだ参加するかどうかはわかりません。たぶん参加しないんじゃないかなあ。
というのも、まったくの私事ではありますが(この日記は基本的に私事によって構成されてますが)この9月でようやく学業を修了することになっておりまして、10月からはまっとうな社会人として働くことになっているのですが、ともかくそういう関係です。就職した最初の週の週末ということでは予定もなにもあったものではない。同じ関係により今は引っ越しの準備をしているんですがこれも面倒で、というか本がちょっと多くて、ここしばらくは延々と梱包してましたよ。とはいえ、たかが二千冊そこそこでこんだけ面倒となると、本物のコレクターの人の引っ越しは本当にしんどいんだなー。 一昨年のSFセミナーでやったアレ なんてふつうにエンターテインメントとして聞いてましたが、いざ我が身となるとこれがまるで役に立ちやしねえ。わたしはこの辺の人たちより蔵書量が1ケタ少ないので、基本的なメソッドが異なるんだよね。
さらに話は脱線するけど、この企画に出ていた大野修一氏(現コミックリュウ編集長)の引っ越しはわたしも手伝ったんですが、あの家への訪問は衝撃体験でしたぜ。家のありとあらゆるところに本が積まれている、っていう表現をときどき見かけますが流しの中 とかコンロの上 とかにまで本の塔が出来ていたのを見たときはさすがに目を剥いた。
で急に話を戻すけど、しかし今年の京フェスは大広間に可憐な中学一年の少女が現れ ることになっているわけで、いやあ細井さんが張り倒されるさまをぜひ見たいなあと思っていたので残念ですよ。
あれだよね「PならばQ」という命題の真理値はPが偽であれば真になるわけですよね。
あ、えっと、それでもうひとつ書くべきことがあって、引っ越すとしばらくは(回線の開通が間に合わないとかそういうつまんない理由により)インターネットから離れた生活をすることになると思いますんでよろしく。オンラインで見かけないとしてもリア充 とは関係ない。