>こんなディレクトリが tmpfs でマウントされていて、中にはカーネルモジュールらしきファイルがあるのですが、なんなんでしょう? ぜんぜん存在を知らなかった。
>
>途中まで読んだ。なんという80年代ジャンプ的展開なのだろう。「このホテルの再建はすでに成った!」発言にはさすがにシビレました。報酬金はどういう風になったのだろう。
>
>いま、コンビニ売りの廉価版で序盤のほうは販売されているので、実際そちらで確認されると良いでしょう。
>
>基本的には「愛の貧乏脱出大作戦」であって、寂れてしまったB級料理店を、函館の一流レストランのシェフ北方歳三が的確なアドバイスで導いていく……話なんだけども、ここで言いたいのはそういうことではないのです。
>
>物語はやがて、もともと函館で北方がオーナーシェフを勤めていた「五稜郭亭」の問題にシフトしていき、また物語のテーマも、「料理には腕だけではなく心が必要」という話になっていきます。それはいい。
>
>しかしだな、1つのエピソードが終了するたびに「それで北方さん、次はどちらへ……?」「うむ、函館だ!」という会話を5回くらいやる(そのたびに途中で違うのに巻き込まれる)という展開はいかがなものかっつーかどうなんだ。
>
>ほかにも、料理雑誌の女性編集者であるとか、偽の再建請負人であるとか、今後の展開に絡みそうなキャラを出してはみるが、読者の反応が芳しくなければ速攻でなかったことにしてしまう強引な手腕など、ジャンプが90年代に切り捨てていった「行き当たりばったりかもしれないがとにかく強烈な話のヒキ」を多用しているのが、なんとも不思議な味わいになっていて楽しい。その際たるものが「このホテルの再建はすでに成った!」という発言でありまして、これはなにかというと、ホテルの再建をかけて、4つだか5つだかあるフロアの料理人と主人公がなぜか対決するはめになったのですね。で、2回くらい戦ったあとでこの発言。「残りの店には大きな問題はない」とか抜かしてホテル編終了ですよ。これには久々にびっくりしました。
>
>まあたしかに、大風呂敷を広げてみたものの畳めそうになくなったらスッパリ切る、というこのやり方はあまり褒められたものじゃないのだけれども、これってある意味では、物語を自分で考えるだけでよしとせず、読者の反応を見ながら物語を作っていくという、まさに本作の主人公の料理の姿勢と一致するところが……あーすまん褒めすぎだ。
>
>まぁキラクに読めておもろいですよと。
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>これだけだとなんなので、まんがのテーマについても一言。「料理は心」というのは、そこそこ続いた料理まんががつい到達してしまうアリガチな結論なのですが、これは下手に手を出すとそれまでは愉快だった料理まんががいきなり駄作になってしまう両刃の剣です。
>
>料理には心がこもっているべきだというメッセージを否定するのではありません。心のこもった料理の方がいいということも正しい。とはいえ料理には上手い下手があるわけで、下手でも心がこもっていた方が美味かというとそうではないのは誰しも知るところです(もちろん、下手でも心がこもっていた方がいい、という人はいるでしょう)。
>
>「料理は心」というときは、そのまんがでは料理のアイディアを作者が考え出せませんでしたというシグナルだとも言えます。でなければこんなことを書くまんがは、まずありません。もちろん、心のこもった料理とそうでない料理があり、そこにどのような違いがあるか、ということをまんが内で表現できていればすばらしくなるかもしれないのですが。
>
>『食キング』はその「どう違いがあるか」の表現が上手い。このまんがには、技術があるばかりに客をナメきった(しかし技術はあるので出てくる料理はウマい)料理人がたくさん登場します。主人公の北方も技術はあるがそれだけではなく、その料理が客を思う心に裏打ちされているという対決になっているわけです。多くの料理まんがの失敗はここにあり、多少は下手であっても心のこもった料理の方が、という展開になることが多く、それもまぁ時には悪くはないのかもしれませんが、心がこもっているからこそこの料理になる、という表現が上手くないわけですね。一方で『食キング』は、自らの料理を「作品」と呼ぶ料理人が超高級食材でつくるステーキに対して、客の出自や体格から一品一品料理を変えてくる(しかもそれぞれがキチンキチンと美味い)という北方に軍配が上がる、というような表現が実に上手い。また、おにぎりの時には、「型を使っているのはダメ」としつつ「心をこめて握ればよい」でもないところに到達できたのはこのまんがならではでしょう。
>
>まぁでもDDRでうどん足踏みであるとか、スーダラ節は2分48秒であるとか、ベースはそういうまんがですけどね。
>
>mplayer -vo aa してみると、なんかちょっと世界が変わった気がした。
>
>すげえよ。普通思いついてもやらないよこんなこと。そして普通リストにあっても使ってみようとしないよ。
>
>「
>モナドのすべて
>」を読んだら書いてあったので、文言はわかっていたのだけどイマイチ使いどころがよくわからないもののひとつが合成というやつで、これを軽々と使いこなせるとカッコいいのだろうなぁと朧げに思っていたのだけど。
>
>ちょっとサンプル例題を思いついたのでメモ。
>
>1行ずつ入力してもらって、入力が quit だったら、それまでの入力したものをリストにする処理を考える。
>
>これはこう書ける。
>
>import Control.Monad.List
inputList :: ListT IO String
inputList =
do s <- liftIO $ getLine
guard ("quit" /= s)
return s `mplus` inputList
>
>なるほどなるほど。
>
>
>getLine は IO String になるので、これをうまく処理するのは面倒くさい。そのときのために ListT がある
>
>
>
>liftIO で「IO String から ListT IO String にする」
>
>
>
>束縛した値は String として扱える
>
>
>
>"quit" と同等性を判断して guard しており、入力が quit だったら空リストにする
>
>
>
>さもなくば return して(1要素リストにし)、さらにもう一度 inputList したもの mplus (連結)している
>
>
>
>ゆえに「quitするまでは入力を促し、最終結果をリストにするモノ」ができあがる
>
>
>
>
>という流れ。もちろん putStr を liftIO すればプロンプトが書けます。なるほど。
>
>実際に計算するには次のようにする。
>
>runListT inputList >>= print
>
>runListT は ListT m a => m
>
>実際には、 IO の値からリストを構成する場合ってあんまりないのかもしれないが、これはちょっとカッコいいと思った。なるほどこういうことなのかという。
>
>ちなみにもし ListT がなければ、次のようになるだろう。
>
>inputList :: IO [String]
inputList =
do s <- getLine
if s == "quit"
then return []
else inputList >>= return . (s:)
>
>んーあんまりコード量は変わらなかった。処理が複雑化したら変わるかなあ(大差ない気もする)。
>
>mixiでも微妙に話題が沸騰しているのが、 OCaml などのプログラムに型を書くか?という疑問。
>
>そこそこの規模のまともなプログラムならば mli を書かないとやってけないので、書かざるをえないという気が。というか先に mli を書き、それから実装を書くのではないかな(もちろん実装を書きながらインタフェースを修正することもある。そんなにきっちり設計して書くようなちゃんとしたものではないので)。
>
>あーとそれから、 mli を書かないってのは、小さなプログラム片やテストプログラムを書く場合を除いて、まず考えられない。抽象データ型+モジュールによるプログラミングというのはそういうものなのではないかと思う。
>
>で、 Haskell の場合の、やけに型を書く文化というのが違和感を持たれている気がするけど、あれは違うと思う。あれは、 OCaml でいえば mli と ml を一緒のファイルに書いているようなものだと理解すると話が速い。型を書く文化なのではなく、 OCaml では mli に型を書かないといけないのに Haskell ではそれを省略することができる(逆に OCaml では外部に公開する型をインタフェースのような書式で書くことができないのに、 Haskell では書くこともできる)ということ。
>
>ファイルを分けるか、同じファイルに書くか、というのは、型の説明が独立していて読みやすいという見方もあるし、いちいち分けるのが面倒くさいという見方もあって、これは一長一短、どちらが明確に良いということはない気がする。ただし caml-mode では C-cC-a で mli と ml を行き来できるので、2つのファイルにしてもさほど不便ではなくなっていて、なかなか良い(ただ、カーソルの位置までは調整してくれないので、そこまで便利ということもない)。個人的には、 OCaml でも通常のプログラム部分にも val 〜 の式を書けると嬉しい。
>
>それとは別に、オプション型とかオブジェクトとかが挟まると OCaml は正しく型推論してくれない場合がまだあるので、実装時に型を書かざるをえない場合というのもある。たとえば→
>http://www.jmuk.org/d/?path=2005/08/11#d11t02
>
これは本質的にはオプション型の問題か。誤解して覚えていた。この辺は実に奥が深いです。
>
>印税は生協に入るらしい→
>http://shiraishi.seesaa.net/article/7401697.html
>
>
>知らなかった。法的には生協だろうけど白石さんに入ってるんじゃないかと思っていた。
>
>ということを久々に思いました。とほほ。
>
>詳細略。
>
>自分用メモ。
>
>手元のノートPCはLinuxの UTF-8 環境なのだけど、おうちは EUC-JP なのでこのままだとちと困ることが起きていた。 GNU screen を使っているわけですが、そのエンコーディング設定がロケールと齟齬があるので、表示系が上手く行ってないという不具合みたいだ。だからってったって、ロケールを統一するというのはうまくない解決法だ。
>
>そういう場合は、 screen で :encoding euc とかいった風に、個別のウィンドウごとに encoding を設定してやるとよい。
>
>.screenrc では defencoding をしたのだから当然のことなのだが、すっかり忘れていたよ。
>
>で、昼は万豚記というところに連れていってもらいました。秋葉原だとヨドバシの8階にあります。他、首都圏内に数カ所あります。
>
>中華麺と丼のお店と理解してください。担々麺が8種類だか9種類だかあるのもポイント。で、食ったのは「一番手強い」と書かれている無頼担々麺。注文時にも、おねーさんが「かなり辛いですが大丈夫ですか」と確認してくるガチ仕様。
>
>えーと、笑っちゃいました。
>
>辛いか辛くないか、というと、あんまり辛くはないです。むろん、通常の辛口くらいの辛さはきちんと確保されているのですが、この程度でウェイトレスが確認するほどとは片腹痛いわいのうわっはっは、と言いたくなるくらい。
>
>辛さだけならば。
>
>えーとあれです、麻婆の「麻」には「痺れる」という意味があります。四川料理というと、とにかく辛いというのが一般的なイメージですが、山椒が効いているのがホンモノの四川料理なのです。という説明をしてわかっていただけたでしょうか。辛さはチョイ辛くらいだけど、とにかく山椒がハンパない。口の中がみるまに痺れていく。だんだん舌の上の感覚は山椒に集約されてゆき、むしろスーっとするというかなんというか。
>
>けっきょく汁まで完食しましたが、なんかですね、食い終わったあと、口の端が痺れているのですよ。「山椒を食うと痺れる」といっても、ふつうはなんというか、あの山椒独特の香りがこう、来るだけであり、舌の上に残るような感覚をもって痺れるとか言っているのではないかと思うんですが、これは「なるほど確かに痺れる」というか、長いこと正座をしたあとの足先のような感覚が口の端にあるわけです。
>
>なかなか不思議で楽しい食事体験でした。皆様もぜひ。
>
>あーちなみに味の方ですが、けっこう美味です。一緒に行った他の人はまともなメニューを頼んでましたが、皆それぞれ美味かったし(豚玉担々麺は絶品だった)無頼担々麺も極端な味とはいえちゃんと美味。価格的にちと高い気はしますがなかなか良いです。ですが行ったら一辺くらいは無頼担々麺を食べましょう。もしくは食べる生贄を用意してそいつに注文させ、自分も一口くらいは賞味してみましょう。
>
>行ってきた。
>
>といっても知合い率が高くて、ほとんど知ってる人の本しか買わなかった気がする。
>
>会場全体の雰囲気はなかなか良好でした。が、正直なところ、知合いであるとかプロ作家であるとか(プロのライターであるとか?)を除いて、これは欲しいと思わせる同人誌はあまり見あたらなかったなぁ……。
>