http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/f49cc8bfd88054c558db13f7eb96f19d
ふと、はてなでの反応が気になって眺めてみたが、こないだの mixi のやつと関連づけている人がいないのは何故だ? にしてもミルグラムの実験がほんとうはアテにならないのはわりと有名だと思ってたんだけど、そうでもないのか。ウィキペディアにも(にすら?)書いてあるんですけれども。
こないだ書いた内容とかぶるけど、 mixi 内での実験がなぜに面白いかといえば、すっかり都市伝説レベルかと思われていた「六次の隔たり」が、その6という数字まで含めて案外正しいらしいというところにあるわけでしょう。そこからは「ミルグラムの実験はともかくやっぱり世界はスモールワールドなんだよ」と言えるのかもしれないし、あるいは現実とmixi内の関係の差異を思えるかもしれない。ともあれ、そこに面白さがあるんじゃないですか。
http://edition.cnn.com/2008/TECH/03/04/obit.gygax.ap/index.html
D&D の作者、ゲイリー・ガイギャックスが死んだ、という事実にはしばらく言葉を失なった。とはいえぼくは世代的にもちょっと若いので、D&Dはほとんどプレイしておらず、彼個人への思い入れはそれほどない。けれども一時代を築いた偉人であるし、それなりにビックリしたものらしい。
というわけでさほど思い入れのないガイギャックスについて個人的に思い出されるのはむしろ『実践ゲームマスターの達人』という本のほうだったりする。この本はRPGのゲームマスタリングに関するノウハウの本、のようなタイトルなのだが実際にはぜんぜんそんなことはない。
もちろん、最初はふつうのセッションハンドリングであったりキャンペーンであったりというようなふつうのマスタリングの話が書いてあるのだが、その辺りはなにせD&Dがベースだしいかにも古めかしい……まあ文献的な価値はあるだろう。けれども話はだんだんほかへ逸れていって、最終章などはコンベンションをいかに運営していくか、ファン活動やサークルはどう続けていくか、ファン人生とは、みたいなのが論点になっていく。なんとも変な本で、内容はわすれてしまったが「変な本だったなあ」という印象だけが覚えている。
「Aクラスの人はAクラスの人と仕事をしたがる」「Bクラスの人はCクラスの人と仕事をしたがる」なる言葉があるようだが、それじゃCクラスの人はどうか。Cクラスの人はといえば、Aクラスの人と仕事をしたがるんじゃないだろうか。という気がする。
もしあなたがプログラミングに興味のある学生なのであれば、 Google Summer of Code に参加してみることを強く勧めます。
Summer of Code については、いろいろと威勢のいい言葉が並びます。「昨年は 90 カ国以上 900 を越える学生のプロジェクトに Google は資金を提供し、何百万行ものコードをうみだしてもらいました。」とか、そういうやつ。しかし、まあ、そういう主張は自分たちの成果を大きく見せたい人たちの言葉であって、これから応募しようかと考えている学生にとって大きな意味があるわけじゃありません。忘れてしまってよいでしょう。
Summer of Code とは何かといえば、基本的には学生にオープンソース活動に参加してもらうきっかけを与えるためのものだ、といえばいいでしょう。誤解があるのではないかと危惧しているんですが、たとえば未踏プロジェクトみたいな、優れた人材を発掘して支援するといった「人材発掘」タイプのものではないんですよね。むしろ、学生の人たちに興味を持ってもらう、きっかけを与える、といった、ある種の「教育」がフォーカスされているように思ってます。
だから、 SoC を「腕自慢の学生たちが賞金を獲得する」ようなイメージで捉えていたとしたらそれはまったくのカンチガイです。誰でも応募していい。仮にあなたの実力とか時間とかが足りなくてプロジェクトが遂行できなかったら、それはあなたを選んでしまったメンターたちの責任であって、あなたの責任ではない。そもそも期間内に完成しなかったとしても、もともとオープンソースプロジェクトなんだし、そこは問題じゃないんですよね。開発を体験してもらいコミュニティを活性化させることが目的なので、だからもともとコミットメントの経験のない初めましての人ほどウェルカムなんじゃないかと思ってます。
さて、以上はメンター組織側の「うまみ」ですが、学生にも利益はあります。というのは金銭的な利益もありますが、むしろ開発に携わる経験の方が大きいですね。大学の授業やら課題やら、あるいは研究で必要なソフトウェアを作った経験というのも重要なんだけど、オープンソースソフトウェアの開発というのはまた違ったスタイルです。これはまた、一般的には会社での仕事とも違う……まあ、オープンソースソフトウェアが仕事という人もおりますが。ともあれ、いろんなスタイルを体験することはその人にある種の「厚み」を与えるし、陰に陽にその人に影響を与えるんじゃないかという気がします。
ちなみにわたしもかつて Summer of Code に採択された経験があります。そのとき応募した動機はごく単純に言えばお金だったわけですが(笑)、結果としてはあの経験は自分にとっても非常に大きかったと思います。開発プロセスそれ自体もともかく、英語でいろんなディスカッションをした経験が自分はあまりにも乏しかったので、そういう意味でもいい経験をさせてもらいました。なので、自分の母語が日本語だからといって日本人のメンターだけに注目するのはあまりにも勿体ないと思いますね。
で、見てみると投稿者数は29と少ないものの「申し込む開発ネタがなかった」というのが大きいと。うーむ、これはどうしたものか……。もし学生でそうなのだとしたらと思うと悩ましいですね。実際にはかなり多くの組織が、かなり多くのアイディアリストを設けていますので、興味のありそうなものをざっと見るだけでかなりいろいろ出てきそうだと思うんですが、それも人によるのかなあ。あるいは多すぎて探せないのか。
とりあえず自分の体験としては、面白げなアイディアをピックアップしてみるのがおすすめです。あと、人の少なそうな組織をターゲットにしてみるのもいいかも。鶏頭牛後といいますか、あんまり応募が多くなければそれだけ自分が採択される率も上がるし、やったことに対してもコミュニティから一目置かれやすいからね。
メンドくさいので何も書かない予定だったが、 paul graham ネタが2つあったのを思い出したのでメモ。
今北産業か pg。
どちらも Gauche とも Scheme とも関係ないな。
http://www.kmonos.net/wlog/83.html#_2259080315を reddit に投稿しようとしたら fragment は違うのにページ単位だと「構文解析の話をしよう」が既に投稿されているから再投稿と解釈されてしまう。
てことで、 reddit されるのを防ぐには、同じ URL のページにしておいて fragment から表示内容を変えるようにすればよいようでした。あらかじめ超どうでもいいページを登録しておきスコア0で消えるようにしておけば完璧。
しかしなんだかなあ。これがそういうポリシであるとしても理解はできるんですが、意図的なデザインなのかしらね。うーむむ、と唸ってしまった。
亡くなったらしい。なんとなくあのままスリランカで妖怪のように生き延びていくイメージだったので驚いたが、しかし、死んだことそのものについてはそれほどのショックを感じない。
"Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic."
R.I.P.
クラークといえば、もちろん『2001年宇宙の旅』であり、『幼年期の終わり』であるわけだが、個人的なベストは『渇きの海』である。もっともSFマニアのあいだでは『渇きの海』や『楽園の泉』を推すのはよくあることで、それほど奇を衒っているわけではない。
クラークのSFは「工学的」な作品と、ややスピリチュアルに寄った作品とが残されている。有名な『2001年』や『幼年期』は後者の作品だが、前者はやはり面白いし、国内のいわゆるハードSF作家に強い影響を与えている。具体的には野尻抱介や林譲治がその代表格だろう(聞いたことがないが小川一水もそうなのだろうか)。『渇きの海』はその「工学系」SFの代表例であり、そのため日本のSFマニアのあいだではわりと評判が高い。
『渇きの海』の舞台は、すでに観光地と化した月だ。月面に、無数の細かい塵が降り積った海のような地帯があるという設定で、その「渇きの海」を渡る観光遊覧船が事故に遭う。というわけで、その船の救出作戦が描かれる。問題となるのは「渇きの海」の物理的特性で、無数の細かい塵はあるときには固体の、ある時には液体のような特性を示すため、容易には救出ができない……。こうした物理的な描像を、それを解決する策の描き方がクールである。今となっては古びている点も多くあるが、それでもなお素晴らしい。
『それでも町は廻っている』はじわじわと好きなまんがなのだけれど、今回は SFだったりするようなはっちゃけた感じはなりを潜めて、日常的な事柄をおかしく描いている。このまんがについてはぼくは1巻の最後のエピソード(弟と妹がふたりで火事を見に行く話)とかが好きなので、けっこうよかった。ミシンソバのオチとか、正月の「もうこりごりでヤンス」なオチ……のあとに1ページあったりするところとか。
でもやっぱりこの漫画で感心するのは、そういう大枠の面白さもさることながらもっと細かいところで妙に凝ってるところにあるよーな気もする。4巻の正月ネタで、紺のところに来ていた年賀状3通のうち、1通は歩鳥、もう1通は針原なのだが残りは誰かというと、実は成嶋悟って書いてあって、誰かというと3巻の仔犬のエピソードに出てきたヤツなんだが、実は名前が出てくるより前に学園祭のエピソードで聴衆として登場していて、「ボーカル誰?」「紺だよ」「ウソ!?」って言ってたりする。というところから妄想たくましくいろんな物語を構築することはできると思うのだけれど、ともかく、そういうそういう妙に凝った(しかし無意味な)仕掛けがいっぱいあって楽しい。
こういうのは、このまんがを楽しむ上ではまったく必要がないことだし、作者も一種のお遊びとしてやっていると思う。でも、そうやって歩鳥の目線からは見えてこないことが裏でいろいろあって、そういういろいろが日常ってやつを下支えしている。それでも日常は巡りくるっていうこのまんがの雰囲気を支えるひとつは、こーゆーところにあるようにも思う。
一方の『ネムルバカ』は出口の見えないミュージシャン志望の「先輩」と一般人の「後輩」のぐだぐだな日常。ただ、上で書いたような意味での日常性みたいなものはこっちにはなくて、だからぼくはそこまで高い評価じゃないのかもしれないけれども、やっぱり面白い。『それ町』は高校生だけど、『ネムルバカ』は大学生だけに、出口の見えないぐるぐるした日常はちょっと切実で切迫している。ちょっとだけ。
あの人分かってねーな/やりたいことのある人とやりたいことがない人の間に/何かしたいけど何が出来るのか分からない人ってカテゴリーがあって/8割方そこに属していると思うんだがね
切迫してぐるぐるした日常とか、上で挙げた台詞とかはデビュー作の「ヒーロー」という作品(Present for me所収)にも共通する気がする。変身ヒーローが悪の組織をついに壊滅させてしまってやるべきことが見つからなくなってしまう、という骨子はぜんぜん違うけれども。
『ネムルバカ』はオチがなんというかアリガチというか、音楽をやっていた人がとつぜんメジャーデビューして……みたいな展開が来たらこうなるしかないような結末だったのが、ちょっと残念。こういう展開は好きなんだけど、好きなんだけど、読んでいて醒めた視点で見てる自分もいたりして。「日常のぐるぐる」がこのまんがの骨子だとすれば、この結末はイイけれども大いなる蛇足であるわけで、ひとまず物語として決着をつけるために必要なものなのだろうと理解している。
それにしても「戸川純の再来といわれた泯比沙子の再来か!?」ってどんな煽りだ。
ふと森見登美彦の『四畳半神話大系』を読み返すが、やはりむちゃくちゃ好きだな、これ。なんというか心に沁み入る言葉の数々とゆーか。
大学三回生の春までの二年間を思い返してみて、実益のあることなど何一つしていないことを断言しておこう。
異性との健全な交際、学問への精進、肉体の鍛錬など、社会的有為の人材となるための布石の数々をことごとく外し、異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化などの打たんでも良い布石を狙い澄まして打ちまくってきたのは、なにゆえであるか。責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
おかげで私は「空気の読めない男」というレッテルを貼られた。しかしそれは誤解と言うほかない。空気が読めないのではなく、誰よりも細かく空気を読んだ上で、意図的に何もかもぶち壊していたのである。
「僕は有意義な学生生活を送れない星のもとに生まれたという事実を前向きに受け止めております。無意義な学生生活を力一杯エンジョイしているのです。とやかく言われる筋合いはございません」
私は溜息をついた。
「おまえがそんな生き方をしているから、俺もこんなふうになっちまったんだ」
「無意味で楽しい毎日じゃないですか。何が不満なんです?」
「何もかも不満だ。俺がおかれているかくのごとき不愉快な状況は、すべてお前に起因する」
ぐっとくるよね。
この本は、『夜は短し歩けよ乙女』や『有頂天家族』にはイマジネーションにおいて負けるし、各話が微妙なラインで繋がっているのかどうかわからないという技巧においては『きつねのはなし』など後の作品ほど洗練されていないし、作者本人の体験にもとづいた当事者感覚めいたものについては『太陽の塔』ほどではない。ようするに、技巧的な面を見ると中途半端なんだけれど、やっぱりこれ、好きだ。そんで何が好きかというと、こういう言葉の数々が、なのだろう。
ところでぼくの再読とはあんまり関係なく、角川から文庫化されるのであったらしい。ぜんぜん知らんかった。いい機会なので未読の人はぜひ読んでみてほしい。面白さは保証しないけど、きっと好きな人は好きなはずだ。
まあなんというかタイトルの時点で勝っている感。
これまでの歌集と違ってある種キャッチー(笑)なタイトルなため、SFとも短歌とも関係なくタイトルを目にした瞬間に「これはまあ仕方ない」という気分になって買う人も多いんじゃないかという気がする。いったい誰のジョークなのかと思ったが後書きによれば幻冬舎での連載タイトルだそうだから幻冬舎の中の誰かが考えたのだろう。
いちおう書いておくけど内容は某少年漫画とは特に関係ありません。
もうちょっと真面目に内容について。本書はこれまでのようなノスタルジーも混じえつつ、もっと最近の事象にまで視線を広げているのだが、実際には90年代の扱いが軽く、というより事実上存在しないに等しく、80年代まで来たかと思うとすぐに2000年を過ぎている点に違和感を感じる。この辺、作者の設定した「私」との整合性の問題なのか単に作者の視点なのか判然としないのだが。
もう誰もいない地球の凩に舞うポスターのアインシュタイン